彼女の場合は、まず「怒り」から
すると、森監督は中国メディアの記者からもたらされた “ある話” を引き合いにした。
中国では共産党によって言論や報道が抑圧されているが、中国の人はそれをよく理解しているという。記事を読む時も、共産党の「バイアス」があることを知っているのだ、と。日本には中国共産党のような存在はないけれど、「空気が人々を支配している」。そしてその空気の中で、表現や報道が非常に不自由になっていて、その空気は見えないからみんな気づいていない、と言われたという。
そこで、森が感じる「怒り」について、こう口にした。
「僕が怒りを感じるとしたら、政治権力であり、メディアであり、社会全体に、ですよ。全部、合わせ鏡なので。つまり、映画を観に来る一人ひとりに感じますね」
今回の映画名である『i』。それは、「私」である。
近年では、ネットメディアを中心に「私」を主語とした記事が共感を呼び、これまでより増えたように感じる。私自身、新聞記者の慣習が染み込んでいて、自分を主語にした記事をどこまで書いていいものか、悩むことがある。
一方で、望月記者は新聞社にいながら「私」を主語に、自分の視点を存分に発揮し、記者会見という公の場においても、主観的な質問をぶつける。その追及姿勢が、ほかの記者とは違ったように見えるのだろう。森監督はその様子を相対的に「メディアの地盤沈下」として描く。
「彼女の場合はまず、『怒り』なのです。自分の怒りを隠さない人なんだと思います」
森監督は、撮影を通じて感じた望月記者への印象について、こう語る。
「決して彼女が優秀な記者だとは思いませんよ。確かに彼女の質問はいつも長い。インタビューだって決してうまくない。だけど、怒りで突き動く取材姿勢というのは、いま、日本のメディアにとってもっとも重要なカンフル剤になるのではないのでしょうか」
そして静かに、だが熱くこう続けた。
「もっとみんな個人的になっていいんですよ。わがままになっていい」
『i』は、社会派ドキュメンタリーとして注目されているが、世間には社会的な問題や政治に関心のない人も多いだろう。いささか失礼だと思いながら、森監督にこういったドキュメンタリーに関心のない人に向けたメッセージを聞くと、いい意味で手のひらを返すような答えが返ってきた。
「ドキュメンタリーは啓蒙のようで、退屈で眠くなるイメージがあるかもしれません。また、政治的、社会的なメッセージがあるのでは?と思うかもしれません。でも、この『i』は全然違いますから。2時間笑いっぱなしの爆笑コメディです。そう書いてください」
この言葉をどう捉えるかは、あなた次第。映画を観て、監督の真意を確かめていただきたい。