乳がんという「転機」


2秒の沈黙


「突然ごめんね、自分の体のことで悪いんだけど、人間ドックの結果が返ってきてね、乳房X線検査の欄にカテゴリー5って書いてあるんだよね」

それを聞いたMが、すっと息を飲む音が聴こえた。そして、次の言葉が出るまでに2秒間の沈黙があった。

「よし、わかった」

……よし、わかった、がんだから、心してかかるよ、という号令のように感じた。2秒の沈黙が、事態の深刻さを物語っていた。

冷静で頭の中がすっきりとしているMは、いつもよどみなくきれいな言葉を話す。すぐに返答せずに黙ってしまう、というのは異常事態だ。一方で、「よし、わかった」という響きに、がんになってしまった自分を丸ごと受け止めてくれる大きさを感じて、ふわっと包まれた心地がした。がんかもしれないのに安心する、という不思議な気分だった。

乳がん初動のポイントは、病院選び


電話でMとつながっていることで、かろうじて気持ちが崩れないでいられる気がしたので、手からスマホが滑り落ちて会話が途切れたりすることのないように、ぎゅっと握りしめた。

「乳房X線検査:カテゴリー5・病変あり。乳房超音波検査:カテゴリー4・病変の疑いあり・乳腺症」と読み上げると、Mは病院の話を始めた。まず精密検査をしなければならないが、もしも手術が必要になる場合、検査した病院でそのまま手術できるほうが時間的なロスが少なくて済む。なので、最初に決めなければならないのは、検査を受ける病院だ。

乳がんの手術数は、多い順に、(1)がん研有明、(2)聖路加国際病院、(3)国立がん研究センターだそうだ。乳房同時再建する場合は、千葉の亀田総合病院も有名。東京にサテライト病院があるので、都内でも通院可能。

Mも最近心配な要素があり、国立がん研究センターで精密検査を受けたばかりだが、一見して以前よりパワーアップしていて、信用できる病院だった、自分を検査してくれた先生が名刺をくださったので、お願いしてみることはできる、とのこと。と、ここまで一気に話してくれた。

Mが受診して良かったならそこにしたい、と漠然と思った。「国立がん研究センターにする」。長年広告の世界で仕事をしているが、口コミに勝る広告はない、と確信している。お金を使って必死で打った広告よりも、親友の一言のほうが強い。たとえ結果的にそれが選択ミスだったとしても、親友の一言で決めたという事実に後悔はない。

Mは、産婦人科の医師だ。毎日のように外科手術をしている。その立場からの私見を、惜しみなく話してくれた。

乳がんは、初期治療が大事だが、手術の難易度は高くないので、腕がいいとか悪いとかは病院を決める際の判断基準にはならない。それよりも、その病院がどのような治療の選択肢を持っているか、が大切。また、手術に始まり、その後の治療でも、主治医とはずっと付き合っていくので、最初の医師の選び方が大事。

この先生は信頼できそうもない、と思っても、治療が始まってしまうとなかなか簡単に変えることはできない。私が紹介する先生で良いですか? はい、いいえ、で選んでね──。

このあたりから、電話ではなく、LINEでのやり取りになっていたが、文章の最後に「私が紹介する先生で良いですか?(はい、いいえ)」と明記されていた。

会ったこともない医師を、たった数分間で得た情報から、はいかいいえで選べと言う。昔からMは大事なことと、そうでないことの緩急が極端におもてに出る人だった。たいていはニコニコと笑顔でおおらかなのに、ここぞと言う局面では笑顔が消えて、別人のようになる。眼から強い光線が出て、言葉の切れ味が鋭くなり、有無を言わさず切り込んでくる。今、Mの文面には笑顔のかけらもない。ああ、私は今、どうしても決めなければならないのだ、と悟った。

人間ドックの封を切ってから、ここまでで1時間。たった1時間で、私はほとんど迷うことなく、病院も先生も決めてしまった。Mのような存在がいない場合は、おそらく1週間経ってもここまで決めることはできないだろう。この時点ではまだ気づいていなかったのだが、この異例のスピードが、この先、私の命を救ってくれることになる。

出だしから「はい、いいえ」を選べと突き付けてくれたことで、これから先に起こることすべて、自分で選択し、決断していかなければならないのだ、と実感を持って知ることができた。医師は、あくまでも選択肢を提示してくれるだけで、決断するのは患者なのだ。これは、病気になるまでは知らなかったことの一つだ。医師は専門家なのだから、最善の方法を提示してくれて、患者はそれに従うだけだと思っていた。思考停止していても大丈夫だと誤解していた。

知識がないと、医師の言葉がわからないばかりか、重要な決断を自力で下すことができない。だから、病気になったという事実に打ちひしがれる暇があったら、病気の勉強をしたほうがいい。そう簡単にはいかない精神状態だが、それでも勉強しなければならないのだ。

文=北風祐子 写真=小田駿一

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