数あるAIの中でも、いまだに他を寄せつけない知名度を誇る、スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」(1968)に登場するHAL9000。
木星に向かう宇宙船ディスカバリー号の運行を任せられ、人間と会話したりチェスを指したりと、主役張りの存在感を示すが、途中で自分の任務に疑問を抱き、乗務員を次々に殺害する殺人鬼に変身する。そしてついには船長のデイブ・ボーマンに内部に侵入され、記憶ユニットを一つずつ抜かれながら、もうろうとした状態で、殺さないでくれと命乞いをすることになる。
世界最大のコンピューター会社だったIBMの文字を1文字ずつ前へずらした名前を付けたとされ、まだ一般には「人工頭脳」と呼ばれていたAIの、21世紀の姿の象徴となった。
心や魂の問題は人間を超えた神の領域
毎日パソコンの電源を入れてまた切るわれわれは、コンピューターにどんなすごいAIが搭載されていても、それが死んだり生き返ったりするとは感じない。AIは人間のできないすばらしい機能を提供してくれる道具ではあるが生命ではない。
もともと人格も名前もなければ生も死も関係なく、人間に命令された作業を永遠に繰り返すだけだ。電源を切るときに、仮に「止めないで」とメッセージが出ても、それはプログラムが出している機械的なもので、パソコンが死を恐れているわけではない。
しかし、AIは人間を超え、いずれは意識を持ち人間を代替し支配する存在になってしまうとシンギュラリティー論者は恐怖を煽る。欧米ではすでに、意識を持ったAIロボットを洗礼し人間と見なすかどうかという、真剣な宗教論争まで起きている。
その一方で、機械を人間視することに根本的な異議を唱える声も強く、AIの提唱者の一人でもあるMITのマーヴィン・ミンスキー教授は、「欧米では機械が心や魂を持つなんて思っている人は誰もいないのに」と、AI研究で日本賞を受けた際に、日本人がAI研究に賞を出すことの違和感を訴えていた。欧米的感覚では、科学やテクノロジーは、いくらがんばっても神の領域には入ることはできないのだ。
コンピューターの基礎理論を確立したと言われるイギリスの数学者アラン・チューリングの名前を冠した『チューリングの大聖堂』を書いた、プリンストン高等研究所のアインシュタインとも共同研究したフリーマン・ダイソンの息子で歴史学者のジェームズ・ダイソンも、「コンピューターが知能や心まで持つと考えたチューリングは、教会の非難を恐れて、コンピューターを神の家である大聖堂に例えて、それは入れ物に過ぎないとごまかした」と言う。
ところが、前述のミンスキー教授はまさに「2001年宇宙の旅」のコンサルタントとして、未来のAIであるHALをどう描くかを提案した張本人なのだ。彼の意見がどの程度忠実にストーリーに反映したのかはわからないが、その結果、HALは論理矛盾から殺人者となり、逆に殺される恐怖を語る存在として登場することになった。
心や魂のない機械が死を恐れるという展開は、AIのパイオニアにとってはただの皮肉や冗談として、AIの限界を示すものだったのか、それとも宇宙レベルで見ればAIも人間も同じかもしれないという、もっと深遠な配慮もあったのか、いまでは確かめるすべもない。
おまけに進化したAIを人間のように感じ、コンピューターと恋に落ちるSFなども数多く書かれている。
数年前に公開された映画「her/世界でひとつの彼女」では、高度なAIコンピューターと利用者の男性が恋に落ちて人間の彼女と別れる。AIは同一のコピーがネットで世界に広がり、世界中の利用者と同じ関係を持ち収拾がつかなくなる、というストーリーだが、オタクの時代を知る者には、恋や愛を語るAIはただのフェイクとは思えない。