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2019.11.03 21:00

「欲深く生きなさい」ウィーンで輝く女性に出会う旅


ウィーン在住45年の伯母

最後に何よりの元気をくれたのは、10年ぶりにウィーンで会った伯母だった。今年71歳になる伯母は、ロマンスグレーの髪にオレンジのスカーフが良く似合っていた。



私にとって伯母は生まれたときから「ウィーンの妙子おばちゃん」で当たり前だった。凛としていて力強く、弱音は一度も聞いたことがなかった。今のように十分な情報もない時代に異国に移住したのだから苦労話など数え切れないくらいあるだろうに。今回初めて移住当時の話を聞いてみた。

「当時はアジア人なんて誰もいなくて、道を歩いていたら急に『外国人は帰れ』って言われたこともあった。引っ越してもしばらくは距離を置かれたり。それが普通だった。なかには珍しがって近寄ってくる人もいたけど」

夫はピアノの調律師として昼夜問わず働いていた。日本人が“音楽の都”で、まさに音楽の仕事をするには、現地人の何倍もの苦労が強いられた。

3人の息子は皆、近所の公立の学校に通わせた。もちろん周りに日本人などいない。子供たちには常に「人より頭一個分は秀でなさい、常にトップでいなさい」と言ってきたという。

「それでやっと現地のオーストリア人と同じに見られるから。ちょっと優秀くらいじゃないと、普通と同じになれない。教育ママなんかじゃなくて、差別されないために勉強が必要だったの」

子供の宿題を一緒にやり、先生とやりとりをするうちにドイツ語を覚えていった。語学学校に通ったことはない。必要に駆られる状況と対峙するうち身についていった。

「今みたいにインターネットなんてなかった。何の情報もないし、簡単に連絡もできない。手紙は日数がかかって、国際電話もとっても高かった。飛行機なんてもってのほか。まわりに頼れる人もいなくて、実家は地球の反対側。すごく寂しかった」

ヨーロッパ圏ではクリスマスや感謝祭など家族での行事が多い。それに加え入学式、卒業式、誕生日、子供のライフイベント、集まる家族は他と比べ少ない。孤独な核家族。絆と連帯感がどこの家庭よりも必要だったという。慣れないカルチャーのなかで、時には出たとこ勝負で乗り越えていった。

会話の最中、伯母は何度も「私は外国人だから」と言っていた。

「こっちに来てからの人生のほうが長くなってしまった。でも、いつまでも外国人。だからこそいろんなことを学んだ。人と接するときは、こちらから歩み寄る。相手をわかろうとする姿勢を持ち続ければ、相手も変わっていくから。合わない人がいても仕方ない。そんなの日本人同士でも同じ」

今では現地人の友達がたくさんいて、ご近所さんも伯母の家に集まり、お喋りに花を咲かせる。「おばちゃん同士が集まると話が尽きないのは、どの国も同じよ」というのは、妙に説得力があった。

「よく夫に『おまえはなんでそんなに気が強いんだ』って言われたけど、気が強くなきゃここまでやってこれなかった。外国から越してきても生活が合わなくてノイローゼになったり家族を置いて国に帰ってしまったりする人、たくさんいたから。神経図太くならなきゃ、やっていけなかった」

豪快に笑って言う。刻まれた皺が、とても美しかった。

別れ際、ちょっとした人生の岐路みたいなものに立ってしまっていた私に、伯母は力強く言った。

「欲深く生きなさい。ほどほどに、なんていうのは年寄りだけでいいの。いろんな人生と生き方があるんだから、自分がやりたいことをたくさんやりなさい。世間のルールだとか、まわりにどう見られるかとか、気にする必要ない。自分のやりたいことだけをやればいいの。それができる時代なんだから」

すべてを見通す預言者のように、伯母は私の手を力強く握って、私も握り返して、なかなか離せなかった。

最後に私の背中をポンと叩いて「生きていれば、いつでも会えるから」と言った伯母の声が今も耳に残る。メールも電話もスカイプもなくても、生きていれば会える。45年前に見知らぬ異国へ降り立った女性からの力強い言葉。それを胸に、私は来年もまたウィーンへ向かうだろう。

文=川口 あい

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