著者が取材を始めたのは、事件から3年半が経った頃だった。すでに男は一審、二審で死刑判決を下されており、最高裁に係属中というタイミングである。著者は静けさを取り戻した村をひとり歩き回り、これまで報じられなかった事実を掘り起こしていく。
事件当時、メディアはセンセーショナルな報道を繰り広げたが、いかに事件の本質とかけ離れたところで騒いでいただけだったかがよくわかる。なぜなら、本書が浮き彫りにするのは、現代の地方で見ることができる普遍的ともいえる問題だったからだ。
犯人の男は都会からUターンした後、集落の人々と積極的に交わろうとしていた。ところが性急なやり方も災いして溝が出来てしまい、コミュニティから孤立してしまっていたのだ。排除と孤独は、次第に男の精神を蝕んでいった……。
ゴミ捨て場を使うな、と言われる
本書を読みながら、知人の話を思い出した。都内でカフェを営んでいた知人は、豊かな自然の中で子育てしたいと、数年前に一家で地方に移り住んだ。選んだのは、美しい山々が望め、空気がきれいなところだ。幸いにもその地で再開したカフェは評判となり、週末は遠方から訪ねて来る客もいるほどの繁盛店となった。ところが、問題が起きた。
近隣住民からいじわるをされるようになったのだ。たとえば、「ゴミ捨て場を使うな」と言われる。知人は車でわざわざ離れたところまでゴミ捨てに行くのを余儀なくされた。厄介なのは、原因がわからないことだ。近隣とは特にトラブルもなく思い当たる節はなかった。
しばらくして「偉そうだ」という風評が聞こえてきた。どうやら都会の距離感のままに近所と接していたのが、その地の人々には、「生意気」「お高くとまっている」と受け止められたようなのだ。都会での近所づきあいは、ある種の匿名性が担保されたコミュニケーションだが、地方では、それが近所づきあいを拒む傲慢な姿勢と映ってしまう。以来、知人は近隣の寄り合いなどに労を惜しまずこまめに顔を出すようにしているという。
人口減少で移住者を積極的に受け入れる自治体が増える一方、新旧の住民同士の間でトラブルが起きることも多い。中には対立が先鋭化し、訴訟に発展したケースもある。放火殺人にまで手を染めてしまった男に同情の余地は微塵もないが、本書を読みながら何度も男を救う手立てはなかったのかと考えさせられた。
まわりの住民たちが男にあからさまな敵意や悪意を示したわけではないだろう。だが男は、村人たちに白眼視され悪口を囁かれていると信じ込んでいった。ただでさえ閉鎖的な村なのに、その中でさらに孤立してしまうということが男の精神にどんな悪影響を及ぼしたか、容易に想像できてしまう。
土地に根ざした共同体の排除の論理は、古くからのムラ社会の悪弊である。だが、地方や都会といった線引きは、もはや意味をなさないのかもしれない。最近は都会でも、社会から孤立した人間による無関係の人々を巻き込んだ凶行が起きているからだ。
人口減少社会が直面するいちばんの課題は、「孤独」の問題かもしれない。私たちにこの難問を解決する知恵はあるだろうか。
連載: 本は自己投資!
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