そのことを理解するならば、我々が、一度、深く考えてみるべき問いがある。
もし、自分のクローン人間が創られ、そのクローン人間が一つの人生を歩み、ある年齢になったとき、目の前に現れたならば、我々は、その姿に、何を見るのだろうか。
そのクローン人間は、自分とまったく同じ遺伝子を持った、もう一人の自分。
そのクローン人間と自分との違いは、これまでの年月に与えられた環境と経験の違いだけ。
そのクローン人間を見つめるとき、我々は、何を感じるのだろうか。何を思うのだろうか。
おそらく、我々は、一つの言葉を心に浮かべるのではないだろうか。
「可能的自我」
言葉を換えれば、「全く別の人生を歩んだときの自分の姿」。
もし、人生において、これまでとは違った環境が与えられ、これまでとは違った経験が与えられたならば、そのようになったであろう、自分の姿。
我々は、自身のクローン人間の中に、その「可能的自我」を、否定しがたい事実として見るのであろう。そして、そのクローン人間の人生がどのようなものであれ、我々は、そこに、深い共感を覚えるのであろう。
しかし、そうした空想的な思索を巡らすとき、その思索の深まりの中で、我々は、ふと、一つの真実に気がつく。
たとえ、それが自分のクローン人間でなくとも、同じ遺伝子の人間でなくとも、一人の人間として、この地球上に生まれ、異なった環境で育ち、異なった人生を生きる、すべての人々。
その姿もまた、本当は、我々の「可能的自我」であることに、気がつく。