こんな思いで頭がいっぱいになり、ダイエットを思い立ったことはあるだろうか。ダイエットしなければ、と自分を追い詰めたことはあるだろうか。
程度の差はあれ、きっと多くの人がうなずくはずだ。現代人の多くは息をするようにダイエットをしていると言っても過言ではないだろう。しかし、そもそもなぜここまで多くの人がダイエットにハマるのだろうか。
『ダイエット幻想ーやせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)の著者である人類学者の磯野真穂にその理由を聞いた。磯野は約20年にわたり、シンガポールと日本において、拒食・過食を焦点に据えた現代社会における食に関する研究を続けてきた。摂食障害の当事者も含め、食べることで人間関係や生き方まで変わってしまった多くの人たちへのフィールドワークを通じ、人類学の視点で行き過ぎたダイエットに警鐘を鳴らしている。(以下、磯野談)
行き過ぎた「ダイエット」の恐ろしさ──何気なく食べる力の喪失
ダイエットはもともと若い女性に限った営みでしたが、次第に女性全体に広がって、現在は性別・世代関係なく行われるようになりました。いまや老若男女すべての関心ごとになったと言ってよいでしょう。
一般的な「ダイエット本」は、この栄養素をとりなさい、このタイミングで食事をとりなさいなど、やせるための「正しい」方法を指南します。他方、私は人類学的視点から、なぜ人々はダイエットに走るのか、ダイエットが行き過ぎると何が起こるのかといった、ダイエットという実践を生み出す社会の構造と、その功罪を、承認欲求の視点も絡めながら研究しました。
まず、ダイエットは自己管理と分かち難く結びつきます。現代社会の特徴は自己管理の賞賛です。食事、運動、最近では睡眠といった生活の隅々に自己管理の呼び声が響き渡るようになりました。しかし意外と注目されていないのは、自己管理を求めれば求めるほど、私たちは「自分」を手放してしまうというパラドックスです。これを私は『ダイエット幻想』の中で「他者の声に漂流する」と書きました。
これはどういうことなのか。
例えば、体重を落とそうとする際、私たちは体重を計測するばかりでなく、ネットや書籍などから、効率的にやせるための方法を次々と取り入れます。摂ってよい/摂ってはならない栄養素、理想的な食事のタイミング、摂取した栄養素がどのように身体に吸収されるかといった生理学の知識など、やせるための情報が世界にはあふれており、私たちはそれを手に入れ、これまでの食べ方を刷新します。
このような食事管理は一般的に望ましいことと言われます。しかしこれを徹底しすぎると「何気なく食べる力」が失われることがあります。これがあまり注目されることはない、ダイエットの落とし穴です。
拒食や過食に苦しむ方が顕著ですが、食べ物と身体を数字で管理する見方を徹底すると、自分は何を食べたいと思っているのか、どこで食べるのをやめたらよいのかといった、ダイエットを始める前には何気なくできていた、自分の身体感覚に寄り添い、素直に食べる能力が消えてゆきます。常に自分を外側から監視するように食べるので、身体感覚を頼りにすることができなくなるのです。
専門家が作り上げた、食べ物と身体を数量化して自己管理をするための情報で身体を満たした結果、それまでの人生で長い時間をかけて培われていた「何気なく食べる力」が消えてしまう。これが私がいうところの自己管理の陥穽、すなわち自己管理をしようとした結果、自分を手放し、他者の声に漂流するという状態です。
これがさらに進むと、他者とともに生活することすらも難しくなる場合があります。他者と食事をとる局面では、何カロリーまでとか、糖質は摂らないとかいった、太らないために自分に課したルールを守ることが難しくなります。その結果、他者との食事を避けるようになり、さらにそれに拍車がかかると、社会生活にも影響が出ます。
他者とともに生きることは他者と共に食べることでもあります。「何気なく食ベる力」は、「他者とともに生きる力」と繋がっているのです。