どんなところにも必ずいると思われるような凡庸な人物像が配置された中で、マーリアとエンドレの特殊な事情が浮かび上がってくる。
その特殊性とは、個別カウンセリングによって明らかになった、二人の「夢の共有」だ。自分が鹿になって森の中におり、そばにはいつも異性の鹿がいるという夢を、毎晩見ていた二人。それを知って、マーリアとエンドレの心理的な距離は一気に縮まっていく。
出会ったばかりの二人の男女が、毎夜同じ夢を見る、しかもつがいの鹿になって仲良くしているという話に、科学的な説明はつけられない。注目すべきは、二人が何らかの欠落感を抱えている点だ。エンドレは片手が不自由であり、マーリアはコミュニケーション弱者、エンドレは恋愛を卒業したと思っており、マーリアは恋愛に怖れを抱いている。
そして二人はおそらく、無意識では相手を求めている。したがって、その欲望は夢の中に姿を変えて浮かび上がってくる。
夢は無意識にあるものが加工されて現れるというフロイトの説に従えば、無意識にあるはずの二人の性欲を別のものに加工したのは、男性に対するマーリアの不安感、若いマーリアに対するエンドレの遠慮だろう。
その結果、欲望は生々しさを漂白され、深い森の中で寄り添う二頭の鹿という、まさしく夢のような美しい情景に昇華したのだろう。
先の女性の分析医とは別に、なぜか子供専門の精神分析医にかかっているマーリアは、外で口にしたくてもできなかった会話をテーブルの上の物を使って演じる自己セラピーを行なっている。しかし彼女の中に育っているのは大人の欲望だから、担当の分析医はお手上げだ。
このあたりからも、マーリアという女性がいかに世間ずれしておらず、自分の殻の中に閉じこもって生きてきたかが伺われる。
やがてマーリアとエンドレは、互いの夢の内容を紙に書いて交換するようになる。「今夜も夢で会いましょう」という台詞はロマンチックだ。
だんだん前向きな姿勢になってきたマーリアは、苦手だった異性関係を受け入れる下地を作ろうと、傍目にはいささか滑稽な努力を一人で重ねる。その姿は微笑ましくも痛ましい。
しかし二人のあまりの奥ゆかしさゆえ、関係はスムーズに進展しない。エンドレは自分に自信を失くしてやさぐれ、夢の中には、見えなくなった雌鹿を求めて走る雄鹿の姿が現れる。
あと少しのところで大きくすれ違っていく二人が、最後に心と体の一致点を見いだすには、牛が屠殺、解体され食肉となっていくような、リアルな代償が払われなければならなかった。
そこに向かって走り出すマーリアの姿に打たれる。美しい夢から目覚め、新しい現実を生きるとは、血を流して自分の本当の欲望を見つめることから始まるのだろう。
連載:シネマの女は最後に微笑む
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