しかし、還暦を過ぎると違った生き方があるようにも思える。哲学者の内山節さんの『新・幸福論』(新潮社、2013年)の「まえがき」には、「目標」に関する面白い考察がある。『目標をもって生きること自体に虚無感がある/目標を達成してきた人たちの生き方が、未来の目標ではなくなっている/本当に幸せなら、幸せとは何かなど考えない/目標をもつ必要性がない幸せな生/目標をたてて前進していくというあり方自体が途上国型/成熟社会があるとすれば、それは目標などもたない社会のこと』と書かれている。
還暦までの生き方は、社会の中で時間的・空間的に相対的な「生」かもしれない。これまでが将来の目標にキャッチアップするための人生だとすると、還暦からの生き方は、将来の「生」ではなく、現在の「生」を生きる「目標もたない生」だろう。それは決して向上心を失ったということではなく、あるがまま自然体で「足るを知る」人生である。還暦とは、「明日のための今日」から「今日のための今日」へと意識を変える、そんな人生の分水嶺でもあるように思う。
ゆっくり「生きる」
近頃では歩く速さがすっかり遅くなった。かつては雑踏の中を早足で歩き、人の流れをかき分けるように進んだこともあった。パソコン画面のスクロールもゆっくりだ。あまり早く動かすと、目が追いつかない。マウスポインタの動きも早く設定すると、すぐに見失ってしまう。動体視力が落ちているからだろう。
テレビを見ていてもタレントの早口の会話には追いつけない。ニュース番組のアナウンサーがしゃべるようにゆっくり、はっきり話してもらうと、とてもよくわかる。視覚や聴覚の衰えなど、これらすべてが加齢によるADL(日常生活動作)低下の兆候だろうか。
しかし、日常動作がゆっくりしたおかげでいいこともある。五感の反応範囲が少し広がった。まちの中を歩いていると、下を向いていた目が自然と空を見上げる。通勤途上に空の色や雲の動きを楽しむ余裕はあまりなかったが、近頃は風が運んでくる花の匂いや木々のこずえの先に芽吹く蕾、喧騒が打ち消してしまいそうな小さな鳥の声に気づくこともある。
還暦を過ぎてから、人生の有限性を自覚しつつも、急いで生きようとは思わない。通勤にも各駅停車の電車に乗ることが増えた。出張には新幹線や飛行機などできるだけ速い交通機関を選ぶが、プライベートな旅ではゆっくりと在来線に乗るのもいい。
以前、新幹線の某駅で「ひかり号」を待っていると、「のぞみ号」がすさまじい速さで通過した。すぐそばを猛スピードで駆け抜ける新幹線を見て、自分が車内にいる時には感じたことのない恐怖感に襲われた。
科学技術が進歩し、人間は想像を絶する速さで移動できるようになった。飛行機や新幹線はとても便利な移動手段だが、その窓からは見えないもの、見落としてしまうものも多いだろう。年齢を重ねて、加齢が進む人生を新幹線並みに急いで生きることはない。定年後にリスタートする人生は、追い越し車線を若い人に譲り、社会の流れを阻害しないようにゆっくり登坂車線(Slower Traffic)を歩めばいいのではないだろうか。
連載:人生100年時代のライフマネジメント
過去記事はこちら>>