社会的なテーマに真正面から向き合う国際芸術祭に。津田芸術監督が振り返るあいトリ


──匿名で展示を見ていない人からの無数の「電凸」は、いまの時代のどのような背景を表していますか。


背後にあるのは、表現の自由や置かれた作品のメッセージの問題というよりは、韓国との国家間の問題であったり、あるいはマイノリティへの憎悪感情、差別感情とそれをもたらしている歴史修正主義の台頭など、それぞれの物語に取り憑かれた人たちが雑にあいちトリエンナーレ全体を「敵」とみなして攻撃し、その様子がSNS上でも拡散されていった。当初は平和の少女像への反発が強かったですが、途中から大浦信行さんの昭和天皇をモチーフとして扱った作品への抗議が増え、より戦線が拡大していきました。

加えて、政治家の発言によって「これは叩いていいものだ」とお墨付きが生まれた。そのことでバッシングすることが目的化し、誤解が誤解を呼んで一部だけ切り取られた情報が広がっていく。現代アートって文脈がすごく大事なものですよね。ただ単に見るだけでなく、現代のなんらかの事象に照らし合わせて作られていることを理解することで、作品の意味が深まることが多いわけですから。


あいちトリエンナーレ2019の展示風景「表現の不自由展・その後」(提供:あいちトリエンナーレ実行委員会事務局)

ツイッターの140字で一部だけを切り取り、動画ならそのメッセージの一部だけを切り取ったら、文脈が寸断されて悪意を持って捉えられ、誰かが意図的に流した情報がどんどん広がってしまうっていう状況に直面した。ある意味では、ツイッターやフェイスブックなどのSNSと現代アートの相性が最悪であるということが露呈したのだと思います。

とはいえ、最近はインスタグラムの台頭もあり、現代美術をシェアして楽しむ人が増えているし、SNSの集客効果も無視できなくなっている。文脈を共有できるアート好きだけで現代美術を共有するのであればこうした問題は起きにくいわけですが、アートをアート好き以外の人たちにも開いていこうとすれば、どこかの段階でこのような問題に行き着かざるを得ない。答えの出ないこの難問に、今後向き合っていかなければいけないのだと思います。

──一方で、県や市など公共セクターが入った実行委員会を組織し、公金を活用した芸術祭や展示のあり方として、展示のバランスを気にする必要があるのでしょうか。

文化芸術基本法の前文や基本理念を素直に読めば、法に反しない限り、公金を使った場合にも展示内容が制限されるべきではないということが原則になると思います。もし公共の福祉を理由に、行政が内容に介入するのが当然だと主張するのであれば、「誰がどんな基準で、どのように判断するか。それに透明性があるのか」について明確に示すことが非常に重要になると思います。

作品をテーマに合うか合わないかを選ぶのは検閲ではなく、キュレーションの範囲内です。ですが、ある作品について「それはダメだ」と言った時に、誰が拒否しているのかわからなければいけない。それがブラックボックスになってしまえば、萎縮を生んでしまいます。

例えば、ある権力者が個人の「好き、嫌い」でこの展示に公金を出すか出さないか決めていいのであれば、これは完全な検閲です。こういった事態を取り締まるために憲法21条で「表現の自由」や「検閲の禁止」が定められています。
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文・写真=督あかり

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