社会的なテーマに真正面から向き合う国際芸術祭に。津田芸術監督が振り返るあいトリ

あいちトリエンナーレ2019芸術監督を務めた津田大介


3日の時点で、あの状況で続けられるという人がいたら、それこそ無謀な判断であると思いますよ。「表現の自由」は大事ですが、「観客と職員の安全と命が人質に取られている状態で無茶をする」という選択は、芸術監督としてできませんでした。


2017年にドイツ・カッセルで開かれた現代美術展「ドクメンタ」の展示 /Getty Images

──日本では、地方創生の文脈で、最前線の現代アートが展示される芸術祭が盛んに開催されていますが、今回のあいちトリエンナーレは社会的な背景を捉えた芸術祭になりました。意図するところは。

ドイツの地方都市・カッセルで1955年以降、5年に1回行われている現代美術展「ドクメンタ」を参考にしました。町そのものの魅力というよりは、大きな社会的テーマをひとつ掲げて、そのテーマにあった作品を展示する都市型の芸術祭です。

自分は芸術監督に選出された2017年の回に行きましたが、楽しくて綺麗なアートなんてほとんどなくて、ジャーナリズムの分脈で、深刻で重たく、考えさせられるような社会的なアートばかりが集められていました。それに加えて、やはりドイツの地方都市・ミュンスターで10年に1回行われている現代美術展「ミュンスター彫刻プロジェクト」も参考にしました。ミュンスターは美術と都市の関係や公共性を大きく問う芸術祭で、そこに展示されていたのは、決して地域に寄り添うだけの美しいアートだけではなく、地域の負の部分にも目を向けた作品も多かった。都市型の芸術祭はどうあるべきかという示唆を、ドクメンタとミュンスターから受け取りました。

ドクメンタもミュンスターも「ただ美しいだけのアート」が展示されているわけではない。しかし、それを多くの人が観に来て観光資源になり、まちづくりの資産になっています。どちらもアートを媒介にした地方創生のひとつのモデルになっていると言えます。日本の場合は、どちらかというと、その土地の魅力にアートを組み合わせて、人を呼ぶベネチアビエンナーレ型の芸術祭が多くあります。それらは既に充実しているので、今回のあいちトリエンナーレでは、あえて「ドクメンタ」のような都市型の芸術祭モデルを日本風にアレンジして導入することで、お客さんを呼び、地方創生を目指すというのが、当初の目標でした。

──あいちトリエンナーレに参加した作家たちからは、表現の不自由展について「事前に展示について説明をした方がよかった」や「導線を考えられたかもしれない」という声がありましたが。

表現の不自由展は、当初から順路から外れたところに、奥に入らなければ観られないように会場の端に設置しました。そして入る前には警告文が掲示され、展示室外から作品が見えないようにカーテンをして配慮しました。あえて、博物館的な展示をゾーニングして置いておいたということです。

参加作家への事前の展示説明の件については、希望としては理解できますが、現実的にどこまで対応できるのか、できたのかという問題であると思います。コンセプチュアルで規模も小さな展覧会であれば別でしょうが、これだけの規模の芸術祭で参加作家に各企画の詳細について開幕以前に十分に説明しているところがそもそもあるのかという話ですね。
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文・写真=督あかり

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