「NYの聖地」に作品を残したアーティスト 松山智一が世界に名を馳せるまで

アーティスト 松山智一

松山智一は、ニューヨークを舞台に活躍する現代アーティストだ。

彼の作品を見た人は、国籍問わず、自身の文化的な原点を考えることになる。

例えば、このコロニアル様式の部屋の中央に佇む女性が描かれた「Welcome to the Jungle」を見て、あなたは何を思うだろう。


Welcome to the Jungle©Matsuyama Studio

日本で生まれ育った多くの人は、浮世絵や日本の昔ながらの文化を感じ取るのではないだろうか。

そうであれば、松山の狙い通りだ。

アメリカ人は、日本らしさより、アメリカのグラフィティをはじめとするストリートカルチャーを先に読み取ることが多いのだという。

過去にはキース・ヘリングやバンクシーらが描いてきた、NYで知らない人はいないグラフィティの聖地「バワリー・ウォール」に12mの巨大な壁画を描いた松山はかつて、プロのスノーボーダーだった。

病院の天井を見ていた10ヶ月で、進路が変わった

今から22年前の1997年冬、当時21歳だった松山は、スノーボードを始めた故郷、岐阜県飛騨高山の一面雪に覆われたスキー場にいた。

今でこそオリンピック競技のひとつとして認められているスノーボードも、当時はエクストリームスポーツの一種だった。

その日も、パフォーマンスをよりクリエイティブに、より華やかに見せるための練習をしていた。

いつも通りに滑走をしていたが、わずかにバランスを崩し、激しく横転した。その時、足先から「ボキッ」という鈍い音がした。

恐る恐る見た足首は、普段とは180度異なる方向に曲がっていた。

プロとして、練習に集中するために上智大学を休学した矢先の事故。スノーボードどころか、松葉杖なしには歩くことのできない10カ月のリハビリ生活を余儀なくされた。

「スノーボーダーとしては、もう先がないことはわかっていました。だからリハビリ期間中に、なぜ自分がこの競技に夢中になっていたのかをとことん考えたんです」

自身の過去と将来へ思いを巡らせて辿り着いたのが、スノーボードでも実現していた、「表現すること」を一生の職業にしたいという思いだった。

リハビリに通っていた病院のベッドの天井を見上げながら、新たに挑戦を決意したのが、商業デザインだった。

アーティストになることを決意した瞬間

本格的に商業デザインを学ぶのなら、アートとビジネスの中心地であるNYへ、と渡米したのは、アメリカ同時多発テロ事件が起きた3カ月後のことだった。

松山が入学したプラットインスティチュートは、美術大学の名門として知られるが、当時彼が専攻していたのはグラフィックデザインだった。

そこではクリエイティビティやオリジナリティを求められることはなく、実利性の高いスキルを磨くことに重きをおいた講義を中心に学んでいた。

NYでの新生活が始まったばかりではあったが、今もスタジオを構えるブルックリンが、再び松山のキャリアを変えることになる。

「そこには、自宅のロフトをアトリエにして作品をつくり続けるようなアーティストがたくさん住んでいたんです。彼らがどう生活費を稼いでいるのかはわかりませんでしたが、こんな生き方があるのかと衝撃を受けました。彼らが新鮮で、輝いて見えました。そこで、自分もアーティストになろうと決意したんです」

アーティストを目指した松山が初めて画材にふれたのは、25歳の時だった。

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写真=小田駿一 文=守屋美佳

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