それらのコラボを担うフラグメントデザイン(fragment design)を主宰しながら、ミュージシャンとしても活動し、デジタルマガジン「Ring of color」も展開する。一年中、どれだけ移動するのかと思うほど海外へ行き、かと思えば頻繁に地元の伊勢に帰り、冬には雪山を滑っている。謎が多く、その「得体の知れない感」が人を魅了している。
“雑誌時代”からインフルエンサー
藤原ヒロシは1964年、三重県生まれ。中学時代にパンクから多大な影響を受けた彼は、80年代、18歳で上京すると、パンクが全盛のロンドン、そしてヒップホップが生まれたばかりのニューヨークへ。現地のカルチャーをいち早く持ち込み、日本におけるクラブDJのパイオニアとして活躍する。
当時、インフルエンサーというのは「雑誌で影響力のある人」だった。つまり、雑誌に出ているという時点で、なにか抜きん出た人だった。音楽シーンで突出していた藤原は、雑誌で連載を持ち、海外で見つけた面白いものを紹介するようになる。そして、そこに載ったものが数カ月後に流行っていく。そんなサイクルが出来上がっていった。
その影響力は、「彼が取り上げるとなぜ売れるのか?」と海外のブランドが注目するほどで、今に続く長い付き合いになるナイキからも声がかかるようになる。実際、藤原がインフルエンサーという言葉を最初に聞いたのは、「まだネットとかない頃、ナイキとのミーティングだった」という。
発信において藤原がその頃も今も変わらないのが、「自分が面白いと思ったものしか載せない」というところだ。
「連載をしていると、多少のお金を対価に『これ載せてくれない?』と言われることもありましたが、若いながらに一切しなかった。そういう意味では、読者に対して正直で、裏切りがなかったですね」
また、その頃のことを、「きれいに聞こえるかもしれないけど、お金はあとからついてくるものだと思ってました。お金がなくても、誰かが奢ってくれたり、ちょっとした仕事をふってくれたり。バブルを直接的に体験したわけではないけれど、そういうことだったのかもしれない」と振り返る。
では、今や世界のトップブランドからオファーの絶えない“コラボレーション”は、どのような形で始まっていったのか。それは、DJからプロデュースや作曲に活動を広げていた90年代に遡る。
「コラボレーションという言葉が一人歩きしているというか、あの頃は、そういう言葉はなくて、『餅は餅屋』的な思考でした。当時自分でGOOD ENOUGHというブランドをやっていましたが、例えばバッグを作るときには、バッグ作りのプロである吉田カバンに作ってもらう、みたいな感じです」