400年前、武田信玄が洪水対策としてつくった有名な堤防が、「信玄堤」こと「霞堤」である。水害から人々を守った功績で名高い「信玄堤」と、明治時代以降の治水事業がどう違うのか。まずは、国土交通省のOBたちに取材したときに知った2つの派閥から説明したい。
堤防には「連続堤防」と、「流域治水」という2つの考え方がある。
連続堤防はその名の通り、堤防が上流から下流まで連続して途切れることなく続くものである。洪水を防ぐために堤防を高くして、川底を掘削して深くする。水を溢れさせないように川の中に押し込めるという発想だ。
ところが、これを「危険だ」と主張する国交省のOBや元技官たちがいた。今から6年前、日本の行政の盲点を取材している際に出会った人たちで、その一人は琵琶湖から二府四県を流れて大阪湾に流れる一級河川「淀川」を例にこんな話をしてくれた。
「淀川の堤防は、堤防といっても土と砂でできた土饅頭です。それが上流から下流まで連続して途切れることなくつくられている。いわば、長いダムなのですが、これはダム屋が絶対につくってはいけない構造なのです」
連続堤防は水のエネルギーを川の中に押し込めて、海に流す。そのため、雨量によって水が増すと、エネルギーが過剰に集中してしまい、濁流が勢いを増して堤防を決壊しやすくしてしまう。決壊した場合、堤防は土なので堤防に近い住宅地は土砂で押し流されて、人命を危うくするというのだ。決壊を防ぐために「護岸工事」が行われている。
こうした堤防の嵩上げによる治水事業は明治政府以来の手法だが、洪水と堤防の嵩上げのイタチごっこが続いた。この政府の手法に対して、昔から疑問視する声は政府内にもあった。その人たちが唱える洪水対策、つまり主流とは違う、オルタナティブ。それが、「信玄堤」である。