「情の時代」における人情
最後に、円頓寺商店街へ。ここは昭和レトロな雰囲気の商店街で、新旧のレストランなどが混在し、名古屋でも注目されるスポットだ。
四間道・円頓寺エリアの拠点となる「なごのステーション」
作品が点在しているが、鷲尾友公の《MISSING PIECE》はぜひ見ておきたいと思った。四人の人物が肩を寄せ合って集まる様子を中心に、巨大な手やはためく旗、建築物などが描かれた巨大な壁画だ。外から誰でも見られるようになっている。この場所では、連日夜に音楽のライブが行われ、あいちトリエンナーレでは音楽プログラムも充実した都市型の芸術祭であることがうかがえる。
鷲尾自身、あいちトリエンナーレのコンセプトの「情の時代」の中でも、SNSなどでの情報の広がりが大きな時代だからこそ、「人情」にフォーカスしたと語っている。人びとがお互いを補い合うような絵からは、エネルギーを感じ、円頓寺商店街の雰囲気ともよくマッチしていた。
鷲尾友広《MISSING PIECE》
今回、私自身は1日半で3会場を巡ったが、美しく、綺麗なものだけがアートではないと感じた。特に現代美術においては、ことさらそうであると思う。
岡本太郎は、自著『今日の芸術』の中で、芸術の三原則として次の3つを挙げている。
「芸術はきれいであってはいけない。うまくあってはいけない。心地よくあってはいけない。それが根本原則だ」と。一見すると、芸術とは相反するような、無意味だったり、恐ろしかったり、センセーショナルな感情を呼び起こしたりすることも「美しい」という芸術論を展開している。
正直、今回のあいちトリエンナーレは「好き」「嫌い」が分かれる芸術祭だと感じた。だが、現地を訪れることなく「こんなものはアートではない」とか「政治的に偏っている」という批判の声を挙げる人たちが、国際的で、背景もさまざまな作品群を目にした時に、本当にそのように思うだろうか。
特に、文化庁のあいちトリエンナーレへの補助金約7800万円の全額不交付の決定には、強く撤回を求めたい。会期はもう残り1日となったが、不交付の決定は、果たして現場を見て下された判断なのだろうか。政治家の発言、あるいはSNS上での「炎上」現象を受けての判断ではないだろうか。
今回のあいちトリエンナーレは、良くも悪くもこの時代性を濃縮して体現し、私たちの現実に疑問を投げかける芸術祭となったと言えるだろう。今後も、自由な表現や作家の活動を通じて、現時点では相容れない主張の対話の扉が開けることを願う。