なぜ、カズオ・イシグロはビートルズを語らないのか?

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60年代以降の音楽に影響されたと公言するイシグロだが、ビートルズやジョン・レノンへの言及は、圧倒的に少ない。あの時代において10代を音楽に没頭したのならば、良くも悪くも、ビートルズはじめジョン・レノンの存在は無視できないはずだ。年代が違うからという理由も浮かぶだろう。だがイシグロは、自身より上の世代の音楽に共感していた。

1954年生まれのイシグロは、13歳でディランのレコードを聞いて音楽に目覚めた。19歳でヒッピーの聖地サンフランシスコを旅したが、そこにはブームが去ったあとの不穏な余韻しかなく、同時期にパンクがイギリス中を席巻するのを「自分の時代は終わった」と年寄りになったような気持ちで見ていた。いつも、自分を「遅れて生まれてきてしまった世代」と感じていた。(注4)

だからこそ、なぜビートルズに傾倒しなかったのか。そこには何らかの意味があるのではないか。翻訳家の柴田元幸氏との対談では「ディランやジョニ・ミッチェル、ニール・ヤングといった北米のソングライターの方が、ビートルズなどよりいい」(注3)と述べているが、単に「アメリカ音楽のほうが好きだったから」といった理由だけでは、納得し難い。

そこで思いつくのが、短編「日の暮れた村」の主人公、フレッチャーの存在だ。彼は、あえていえば、ジョン・レノンのトリビュート・キャラクターのように読むことができる。

ジョン・レノンが体現した時代性

「日の暮れた村」の主人公フレッチャーは、かつて故郷の村で何らかのグループに属し、絶大な影響力を発揮していた。若者たちに崇められ、輝かしい人生を送っていたが、時代の変遷とともに人びとの思想も価値観も変わり、なかば追い出されるように村を出て放浪生活を送っていた。

物語はフレッチャーが再び故郷へ戻るところから始まる。彼は過去の記憶が曖昧なままの状態で、出会う人々との会話によって、かつての自分を思い出していく。イシグロの代名詞ともいえる手法「記憶の騙(かた)り」が、ここでも使われている。

「日の暮れた村」は、前述の、登場人物が音楽家ばかりの長編作『充たされざる者』の前身として書かれた。よって主人公のフレッチャーを音楽家/ミュージシャンと仮定して考えるのは、おかしなことではない。

そして、その存在によって人びとに大きな影響を与え、ひとつの時代を牽引したミュージシャンといえば、自ずと思い浮かぶのはジョン・レノンだ。

ジョンはひとりのアーティストとして、冷戦、そしてベトナム戦争への反戦に精力を注いだ。一方で、孤独と喪失感を埋めるかのようにドラッグに依存する不安定さがあった。その矛盾は、当時の時代性を体現しているようだった。
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文=川口 あい

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