今こそ対馬へ。「国境の島」でのボーダーツーリズムが面白い

神話の時代を感じさせる和多都美神社。本殿正面の鳥居のうち2つは海中にある


状況が大きく変わったのは、2011年の秋である。東日本大震災直後、当時1社独占で運航していた大亜高速が運休を決めたことで、いったん対馬・釜山航路は途絶えたかにみえた。

ところが、この運休が他社の参入を許すこととなり、同年10月にJR九州高速船、11月に韓国系の未来高速がこの路線に乗り入れた。こうして3社体制になってから、対馬を訪れる韓国人客数は右肩上がりに伸びた。

これにともない韓国からのインバウンド投資が始まり、街の風景が変わっていく。日本のメディアが対馬のオーバーツーリズムや地元住民の反発を報じるようになったのもこの頃からだ。

「いまではもう見られなくなったが……」と前置きして、地元の人がよく語る韓国人客のマナー問題は、2000年代には頻発していたようだ。当時の韓国人客の多くは団体客で、公園や広場などの公共の場で宴会を始め、ゴミを残して帰るなどの姿が地元の人たちに目撃され、苦情が出ていたという。「韓国人お断り」とハングルで店の前に書き出す飲食店はいまでもある。

当時の彼らを弁護するつもりはないが、韓国で海外旅行が解禁されたのは、ソウル五輪の翌年の1989年だった。つまり、2000年代は彼らが海外旅行を始めてまだ10数年ほどの時期。一方、日本で海外旅行が解禁されたのは1964年で、悪名高い日本人の団体旅行が批判されたのが1970年代だったことを考えると、時期は違えど、同じような過程であったといえなくもない。

さて、対馬・釜山間の国際航路には前史がある。航路の開拓は対馬側から始まっている。1989年(平成元年)、竹下内閣のふるさと創生事業で、地域振興のために各自治体に交付された1億円で、当時の、対馬市合併前の上対馬町は、18人乗りの小型船「あをしお」を導入。対馬国際ラインとして比田勝・釜山間の不定期運航を始めた。


ふるさと創生事業で導入した国際航路のための船「あをしお」

当時、対馬国際ラインの事務局長だった比田勝亨さんによると、「航路開拓を推進した有志の人たちは、戦前や昭和20年代から30年代に盛んだった韓国との貿易で対馬が賑わっていた時代を知る世代だった」という。

小型船による釜山との交易は「日韓片道貿易」と呼ばれたが、1960年代初めに終焉を迎える。以降、対馬の経済は活気を失うが、日本は高度経済成長のただ中にあった。対馬は活路を九州との結びつきに求めた。
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文・写真=中村正人

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