「人工共感」で世界を変えるイスラエル人起業家が歩んだ道

テルアビブ大学構内にあるスタートアップ育成拠点「カプスラ」の前に立つ、ムーディファイのシャロンCEO。機械工学に心理学を応用した技術をもとに、自動車事故や危険運転を根絶することを目指している。

イガル・シャロン(50)は1991年1月の湾岸戦争の開戦をヨルダン川西岸で迎えた。米国を中心とする多国籍軍が「砂漠の嵐作戦」と呼ばれるイラク空爆を開始し、CNNが世界に生中継した翌日の模様を彼はこう話す。

「あの日は前日から雨が降り、泥の中で司令部からの命令を待っていた。戦車部隊と一緒にヨルダンを抜けて、イラクに攻め込む指令をね。でも指令は出ず、夜になるとイラクのスカッドミサイルが頭上を飛び越え、故郷のテルアビブの空を赤く染めるのが見えた」

軍隊に入って3年目。当時20歳の彼は砲兵部隊の通信士官として10数名の部下を率いていた。恐怖は感じなかったか、と尋ねると「あの頃は国を守る使命に燃えていたから、怖くはなかった」と返した。

18歳から兵役が義務づけられたイスラエルでは、戦場経験をもつ起業家は多いが、彼ほど苛烈な体験を語る人はまれだ。それだけに「イスラエル人は軍隊で大人になる」というシャロンの言葉は重い。

「上官の判断の誤りで自軍を撃って仲間を殺してしまった友人もいた。除隊する時になり、戦場でトラウマを抱えた人たちに、自分は何ができるだろうかと考えた。しばらくして、心に浮かんだのが心理学の道に進むことだった」

シャロンが2015年に創業した「Moodify(ムーディファイ)」は、自動車を運転中のドライバーの感情を読み取り、疲労や眠気などを検知した場合に、適切な対応を行う車載システムを開発する。その技術の根幹にあるのが、「アーティフィシャル・エンパシー(AE:人工共感)」と呼ばれる、心理学を機械工学分野に応用した最先端の知見だ。

両親はホロコーストの時代を生き抜いた

「どれほど革新的なテクノロジーであっても、その基盤には人間の心理や行動を読み取る技術が求められる」

そう語るシャロンはテルアビブ大学で心理学を学び、認知行動療法の修士を取得したサイコセラピストだ。

「両親は1930年代前半の欧州で生まれ、ホロコーストの時代を生き抜いた。過酷な運命をくぐり抜けたユダヤ人の中には、心的外傷を抱えた人も多い。彼らの心の傷を心理学でケアしたい思いもあった」

外交官の父をもつ彼はイランで生まれ、高校時代をドイツで過ごした。大学卒業後は欧州の政府機関に勤務し、その合間に心理療法士の資格を得た。「本当は医者になりたかった」と語る彼は、会社勤めには向かないという思いを抱えつつ30代を過ごし、自身でビジネスを立ち上げる機会を伺っていた。

心理学で人々の心をケアしたいという、彼の思いがようやく形になったのが、13年にイスラエルで創設した認知行動療法の特別スクールだ。同校はこれまで約600人の卒業生らに、不安神経症や強迫性障害を改善するスキルを教えた。そこで教え子として出会ったのが現在、同社のCTO(最高技術責任者)を務める数学者のヤニブ・ママだ。

「人間が他人の感情を学び取るのと同じプロセスで、コンピュータに感情を学習させようというアイデアを、マシンラーニング(機械学習)の知見を持つ彼から持ちかけられた」(シャロン)

「人工共感」というテクノロジーの力

ここ十数年で人工知能(AI)に関する研究は深まったが、AIが主に脳の大脳皮質の反応を扱うのに対し、人工共感(AE)は脳の奥深くの大脳辺縁系がつかさどる、人間の心や情動をAIに学ばせる技術だ。

「最初に人工共感の適用領域として考えていたのは難民や囚人のメンタルをケアすることだった」(シャロン)
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取材・文=上田裕資 写真=Jonathan Bloom

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