不可能だと思われていたサッカーのプロ化を成す。成長させ、ステージを変える。そして新しい場所でも、彼は成し遂げた。
川淵三郎は、挑戦のストーリーを生きる。
挑戦と探求というハンティング・ワールドの発想を地でいく行動力。「もう休むつもりだったんだけどね」と話しつつも、その眼光はいささかも衰えない。
彼になぜか期待してしまうこの気持ちは何なのだ。
川淵三郎のストーリーに、私たちは後押しされるサッカーのこと、バスケットボールのこと、そして日本のスポーツの未来。古い体質をディスラプトしてきた川淵の言葉には、なぜ強い説得力があるのか。時折、顔を赤らめながら訴える、川淵流の叱咤激励だ。
川淵三郎という人間には、”柔と剛“が共存しているようだ。
柔軟性に富んだオープンマインドで物事を見ながら、非常に強い意志と情熱を持ってそれを実現させる。そんな相対する資質を備えている彼だからこそ、これまでの輝かしいキャリアを築くことができたのだろう。
日本サッカーの黎明期を支え、Jリーグを創設し、成功させた後に、バスケットボールのプロ化を果たした川淵。その経歴を文章にすると数行で終わってしまうが、それを成し遂げるのは、決して簡単なことではなかったはずだ。
「Jリーグができる前、サッカーは日本で人気が無いスポーツだったんです。僕が日本代表の監督をやっていた時に、ポーランド代表との試合を日本でやったのですが、土のグラウンドだったし、観客も1000人くらいしか入ってなかった。代表戦なのにですよ。メキシコ五輪で活躍した釜本(邦茂)の人気で、少し盛り上がった日本のサッカーも、彼らの引退と共に衰退したしね。僕は若手の筆頭で、日本サッカー協会に言いたいことをガンガン言っていたのだけど全く変わらなかったから、日本のサッカーの発展を半分諦めていた。だから46歳の時に、サッカーを見限って務めていた古河電工の社業に専念しようと、サッカーから離れたんですよ。でも、営業部長として業績も上げていたにもかかわらず子会社に出向しろと言われ、51歳でサラリーマンとしての先が見えてしまった。そんなときに日本サッカーリーグ(JSL/Jリーグの前身)の総務主事の話があったんです。当時、JSLに所属する企業チームの若手がJSLをプロ化したいと議論していました。
一度はサッカーと縁を切った人間ですから、客観的にサッカーのプロ化を進めることができたのかも知れませんね。サッカーに夢中で、サッカー一色の人生を送ってきていたら違っていたかも。『今の日本のサッカー?ダメでしょ??』という考えでプロ化を進めていましたから。ヨーロッパと比べて、もっとこうしたい、ああしたいと思っていたし、選手のプレーにも不満がありました。でも、ここ2,3年、かなりレベルが上がってきて、久保(建英)ら若い選手が、世界のビッグクラブに移籍するようになって、僕の想像を超えるところまでいった。だからサッカーに関しては、やっと色々と細かいことは考えずに、リラックスして試合を楽しもうというところに到達しました」
日本サッカー協会(JFA)の会長を退き、最高顧問を務めていたとき、バスケットボールの関係者から『力を貸してほしい』と頼まれ、日本バスケットボール界の内情を知る。その後、川淵はバスケットボールのプロ化に着手し、2016年にBリーグを発足。プロリーグとして運営も軌道に乗り、野球やサッカーと並んでバスケットボールは日本のメジャースポーツとしての盛り上がりを見せている。
「国際バスケット連盟(FIBA)のパトリック・バウマン事務総長に『チェアマンになってほしい』と言われた時は、『解決できるのは僕しかいない』と即答しました。今考えると、よく言ったもんだと思います。でも、失敗するとは思わなかったんです。自分が得てきた経験から、成功させる自信はあったし、FIBAやスポーツ庁、文部科学省、JOC(日本オリンピック委員会)などの後ろ盾もあったので、突破するぞ!と思えました」
当時、日本にはアマチュア主体のナショナルバスケットボールリーグ(NBL)とプロのbjリーグがあり、bjリーグは、資本金15億円の債務超過寸前の法人だった。新しいプロリーグを作るためには、全く異なるリーグを作ること以外、手段は無かったと川淵は話す。
「バスケ関係者にも会って、プロ化の話を相談しました。そんな時、東京大学の理事を務める弁護士の境田正樹先生との出会いがありました。Bリーグ創設を進めるにあたって、難題だった日本バスケットボール協会(JBA)の理事27名全員の(再任のない)退任、JBA評議員70名の退任を任せることができました。NBL、bj合わせて47あったクラブチームとの交渉も、境田先生が僕に代わってやってくれた。そんな人との幸運な出会いがあったからこそバスケットボール界の改革を成し遂げることができたのだと思います」
自分の言ったことを理解して実現化するための具体的な案をみつけ、それを進めるために周囲を説得することができる。これこそが川淵が求め、得てきた人材の資質。そして、これまでの経歴は関係なく、どんどん登用するのが川淵流。
「ガバナンスを強化させるには、優秀な人材確保しかありません。多くの協会が、その競技のOBが専務理事や役員に就いたりしている。その役員にビジネスマインドがあればいいけど、それが無いと、今の時代はダメなんです。サッカー協会は、ビジネスの世界からも人材を登用しているから成功している。それに、資金があるから、優秀な人材を各業界から得ることができるのです。特に団体競技は、協会のガバナンスが効いていないと、普及促進が進みませんし、そのスポーツは強くなりません。日本フェンシング協会会長の太田雄貴さんは、選手としても、組織人としても世界を見てきて、日本でトライ&エラーを繰り返しながら、今までとは異なる方法でガバナンスを強化しようとしている。僕はそういう意思がある人を尊敬しています」
不可能だと言われるような大きなことを追求し、成し遂げるには、「絶対に成功する」という信念と一緒に仕事を進めていく正しい人の選別が必須なのだということを、川淵のキャリアを見ると伺い知ることができる。
「ハンティング・ワールドの創設者、ボブ・リーさんも、考え方のスケールが大きな方ですよね。そして目標には全力を以ってあたり、商品を生み出した。このように、僕は日本人の考え方のスケールを大きくしたいんです。この競技場の集客は3千人だから、3千人用のアリーナでいい、という考え方はスケールが小さい。今はまだ最大3000人集客のマイナースポーツだけれど、メジャーになることを目指して、1万5千人のアリーナを作りましょう!というスケールの大きな考え方を持ってほしい。日本人は、『これしかできない』という考え方を持って、決めつけてしまうところがある。ボブ・リーさんが、無理だと言われたところに探険し、更なる商品クオリティの高みを目指したように、この辺でいいや、というのではなく、こういうところまで行こう!と思える人が日本には必要です」
現在は、日本トップリーグ連携機構会長を務め、サッカーのJリーグ、なでしこリーグ、フットサルのFリーグ、Bリーグ、女子バスケットボールのWJBL、Vリーグ、ハンドボール、ラグビー、アイスホッケー、ホッケー、女子ソフトボール、アメリカンフットボールの9競技12のトップリーグや協会の改革に取り組んでいる川淵だが「実は80歳になったら引退しようと思っていたと」笑う。
「正直そろそろ、のんびり過ごしたいというのもあるのですが、スポーツ界が僕を必要としてくれる限りは、色々と役に立ちたいという気持ちもあるので、結局はまだこうして留まっています。今はラグビーが一番プロ化に近いスポーツなのですが、それに関しても、僕の経験から今後も色々アドバイスしていけるかなと思っています」
川淵にとって、スポーツのプロ化とは一種の冒険のようなものなのではないだろうか。冒険家であったボブ・リーと同じく、皆が不可能だと考える“境地”に向けて、まだ誰も得たことがない答えを探求し、諦めず追い求める大志を抱いているのだ。現在、続々とプロ化が進むスポーツ界に、川淵は欠かせない存在。彼が、ゆっくりと余生を過ごせる日は、まだまだ先になりそうだ。
川淵 三郎◎1936年生まれ。大阪府出身。早稲田大学、古河電工サッカー部でプレー。1970年に現役引退。サッカー日本代表監督などを経て、Jリーグ初代チェアマンに就任。現在は日本サッカー協会相談役、日本バスケットボール協会エグゼクティブアドバイザー、日本トップリーグ連携機構会長など、多数の肩書を持つ。ショルダーストラップが取り外し可能な2WAYタイプのブリーフケースは、ロングセラーアイテムのひとつ。ビジネスをアクティブにこなす躍動感がある。
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