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2019.09.26 11:10

「有田みかん」はなぜ、年商10億円を生む「奇跡の果実」になったのか

「農業」にどんなイメージを持っているだろうか。高齢化が進み、後継者が見つからない。天候に左右され、重労働の割に儲からない──。

全世帯平均所得の約552万円と比較すると、大きな開きがある。同年の1世帯当たりの農林水産省の統計によると、2018年時点の農業就業人口はおよそ175万人。これは2010年時点から比較するとおよそ67%に減少している。平均年齢は66.6歳と、年金支給年齢をゆうに超える。また、2017年の農業経営統計調査によれば、果樹作経営(全国平均)の1経営体当たりの農業所得はおよそ226万円。データに照らし合わせれば、確かにイメージ通りだろう。

だが、そんなイメージを覆すみかん農業法人がある。和歌山県の「早和果樹園」だ。

スケールメリットが得られない「みかん栽培」

海を臨む断崖に、みかんの樹々が生い茂る。日本有数のみかん生産地、和歌山県有田市に本社をかまえる早和果樹園は、露地栽培で年間約1600トンのみかんの生産から加工販売まで一手に担う「6次産業化」に取り組んでいる。従業員は60名を超え、売上高は年間約10億円にも達する。ここ数年は大卒の新入社員も積極的に登用し、平均年齢は約35歳と、業界内ではまさに異端の企業だ。

「果樹栽培は穀物や畜産のようにほとんど機械化できませんから、スケールメリットが効かないんです。どれだけ拡大しようとしても、人と手間がまるまるかかる。みかんを一つひとつ手でもいで収穫しますからね。農業法人の集まりに行くと、よく言われるんですよ。『果樹で10億なんて、わけわからん』って(笑)」

そう話すのは、早和果樹園代表取締役社長の秋竹俊伸氏。1997年に前身の「早和共同撰果場組合(早和共撰)」に参画し、2019年に現職に就任した。



早和果樹園は、1979年に創業された早和共撰にその歴史をさかのぼる。一般的に「共同撰果場」とは、複数の農家が共同で運営し、選果や箱詰め、市場出荷を共同で行うことで効率化を図る仕組みで、今でも全国各地で運営されている。当時、俊伸氏の父親で、現会長の新吾氏をはじめ、7戸のみかん専業農家が新たな選果場を創業し「完熟早生みかん」を生産。市場をイチから開拓し、「有田みかん」ブランドを確立してきた。

高度成長期の1960〜70年代、「収穫籠ひとつで人を一人雇える」ほどの高値でみかんは取引され、農家はこぞってみかん栽培に乗り出した。有田もその例外ではなく、水田用地に土を入れ、みかんに転作を図るところもあったという。だが果樹の場合、水田用地と相性はあまりよくない。甘い果実の条件に水はけのよさは欠かすことはできないからだ。60〜70年代の「みかんバブル」の追い風に乗った結果、有田みかんの中でも味にバラつきが生まれるようになった。



80年代に差し掛かるとみかんの生産量は飽和状態となり、価格も暴落。全国の年間流通量はピーク時の350万トンから、現在の約77万トンまで落ち込んだ。その中で早和共撰が生き残りを図った方法は、品種改良による「完熟早生みかん」栽培に特化したことだった。さらに、地元に近い大阪や京都の市場ではなく、東京や新潟など新しい市場を開拓し、販路を確立。1991年には年商1億円を記録するなど、着実に売上を伸ばしていった。
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取材・文=大矢幸世(+YOSCA)、企画・編集=FIREBUG

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