35年前から進化しない日本の教育は、世界の変化に追いつけるのか

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しかし、その大人が子どもだった頃に受けた教育は20〜30年以上前の、つまり同一商品の大量生産がベースの前時代的な価値観に基づいて構築された教育である。今の子どもたちが大人になって社会に出るのは20〜30年後。つまり、単純に計算しても40〜60年の時差が生じてしまう。この40〜60年の間に社会も文化も、そして世界も、急速に変化し続けていることを忘れてはならない。

日本の教育改革は35年前から進んでいない
 
20世紀型の「正解に、より早く正確にたどり着く力」を身につける教育ではなく、21世紀は「答えが見つかっていない課題に対して、深く考え適切なアイデアを創出し、それに基づいて行動する力」を身につけなければならない。そのための教育は20世紀の教育と大きく異なっているはずだ。なのに、その改革が進まない。そのような危機感は、国も40年近く前から抱き続けており、実際に教育改革についてはこれまでに幾度となく議論されてきた。

1984年、当時の中曽根康弘首相が主導して設置された臨時教育審議会では、「記憶に偏った詰め込み型、知識集約型の教育ではダメだ」という主旨の議論がすでに行われていた。その答申には3つの点が記されている。その第1点目には、「画一性、硬直性、閉鎖性を打破して、個人の尊厳、自由・規律、自己責任の原則、すなわち『個性重視の原則』を確立する」と明示されており、その後、「個性を大切にしよう」という空気が日本の教育界にじわじわと広がっていった。それがうわべだけのものであったか、本質的なものであったかは今はあえて触れない。

1996年には文部科学省下の中央教育審議会での答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」のポイントを次のようにまとめている。「これからの社会は、変化の激しい、先行き不透明な、厳しい時代と考えられます。そのような社会では、子供たちに『生きる力』をはぐくむことが必要です」。ここでいう「生きる力」とは「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力」であると解説されている。

そして2002年、ようやく「ゆとり教育」として鳴り物入りで始まった「総合的な学習の時間」は、能動的な学習へと転換することを目的として思考能力を高めることが期待されていた。しかし、古い学力へのこだわりが強く、「ゆとり」などを標榜するから学力が低下した等の批判が相次ぎ、試みは挫折した形になってしまった。

しかし、文部科学省自身は常に時代の先行きを読み、教育をシフトするためにカリキュラムを修正し、次世代向きの教育を目指してきたのも事実なのである。

OECDの生徒の学習到達度調査など、国際学力テストで順位を落としたことをきっかけに、「ゆとり教育」への批判はさらに強まった。そのため、2008年告示の学習指導要領では「脱ゆとり」へと逆行してしまったことは記憶に新しい。

「都合よくプログラミングされた人間」から抜け出すために
 
今年は2019年である。驚くべきことに、「記憶に偏った詰め込み型、知識集約型の教育ではダメだ」と気づき始めてからすでに35年が経過している。その間、地域によっては記憶重視からの脱皮が試みられるようになってきたが、今なお多くの教育現場では数十年前とあまり変わらない教育が行われている。
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文=太田美由紀

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