野村がデザインし、10年にオープンした東京・渋谷のカフェ「ON THE CORNER」。店舗名はマイルス・デイヴィスのアルバムから借用した(19年7月に閉店)
さらに人生の歯車は回り続ける。
海の家にも名前が必要だとなり、「僕らは地球の周りを回る人工衛星のようなものだ」という思いから「sputnik」と名付けた。
この名前を黒崎は気に入り、同名の本を出すことが決まる。内容は、野村が世界中のクリエーターにインタビューし、彼らの生き方を紹介するというもの。
これが、野村が「面白いと思ったことを発信する」人生へと舵を切るきっかけになった。
知人らから金を借り、世界一周オープンチケットを買って突撃取材を敢行した。
イタリア出身の登山家ラインホルト・メスナーにアメリカの作家ケン・キージー、イギリス出身のファッションデザイナー、ポール・スミスなど総勢86人に会い、執筆・編集はほぼ1人でやった。
こうして生まれた『sputnik : whole life catalogue』は伝説のインタビュー誌として話題を呼び、野村の名前を世に知らしめた。
そして、このときの出会いが、のちの仕事へと繋がっていく。
32歳のときに、『BRUTUS』で初めて「写真家・ブルースウェーバー犬との生活」の特集を担当。
その一方で、ソフィア・コッポラに頼まれて映画『ロスト・イン・トランスレーション』に出演し、友人と店舗設計や建築ディレクションを手がけるtripsterを設立するなど、仕事の場を次々と広げていった。
こう聞くと、手当たり次第に仕事を受けていたかのように思えるかもしれない。だが、当時から「やりたいことしかやらない」姿勢は徹底していた。
例えば、雑誌のタイアップページは一切やりたくない。だが、断っていると稼ぎが足りなくなる。ならばと他の分野で自分が興味のあることをする。その結果、現在のマルチなワークスタイルが出来上がったわけだ。
そんな野村が最近、表舞台で注目を浴びたのが、18年に日本で公開された映画『犬ケ島』のときだ。
ウェス・アンダーソン監督が手掛けるストップモーション・アニメで、野村は共同原案と日本側のキャスティングディレクター、声優に名を連ねている。
このときのエピソードにも、野村が周囲を惹き付ける理由が詰まっている。
始まりは、1通のメールだった。
「日本の映画を作るから、手伝ってくれ」
ウェスは野村にとって、10年来の友人だ。「手伝うよ」と答えた。
「そうしたら、なし崩し的にやることが増えていったんですよ」と野村は苦笑する。
ボードメンバーに名を連ねる日本人は野村だけ。日本側の声優選びからポスター制作に至るまで、あらゆることをやった。
このために幾度、ニューヨークに行ったか知れない。何千という数のメールもやり取りした。他の仕事を同時進行しながらなので、自ずと睡眠時間を削らざるを得なくなる。
「地獄のような3年間だった」と、野村は当時を振り返る。
それでもやり切れたのはなぜか。