分断の焼け野原に新たなコモンセンスは生まれ得るか? 「表現の不自由展・その後」の騒動に寄せて

「表現の不自由展・その後」展に展示された「平和の少女像」(筆者撮影)


また、ぼく自身は一連の騒動に関するパブリックな議論に可能な限りコミットしたいと考えています。SNSなどの言語メディアの未熟さによって引き起こされている分断への対応として、芸術にしかできない方法の模索、あるいは、テクノロジーによって解決可能な方法の模索、さらには、新しい議論とその共有の方法そのものを根底から議論し、その実現可能性を検証し、実装していくことに今後も主体性を持ってコミットしていきたいと考えています。
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アーティストは基本的に孤独です。社会の役に立つ存在でもありません。むしろ、アーティストは元来、社会にとって極めて危険な存在なのです。アーティストたちが連帯を示す必要など、初めからどこにもないのです。アーティストを名乗るすべての人は、このことを自覚すべきであるとぼくは考えます。

「あらゆる人は何らかの点において弱者である」

少数派になることで得られるある種の「快感」は人間の自然の一部であり、ぼくの中にも確かに存在します。そして、それを手懐けるには大変な困難が伴います。
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国語辞典編纂者・日本語学者の飯間浩明氏の言葉を借りるなら、あらゆる人は何らかの点において弱者です。

最近のぼくは、こうした認識を新たなコモンセンスとして人々が持ちうる可能性について考え続けています。右派と左派、愛国とリベラル、表現の自由とヘイトスピーチ、そのどちらが正しいのかを審判するような対決的な議論ではなく、同じ景色を眺めながらゆっくりとリーンバックし、共に互いの弱者性を認め、和解の言葉を探すための時間を過ごす。

もしそのような状況を作ることが可能であれば、少数派による絶対的正義の行使は自然と無意味化し、ぼくたちはいつの日か、今回の騒動で生じた類の対立や分断を乗り越えることができるかもしれません。

アーティストにはアーティストの使命がある。ぼくはその使命をこれから、人生を賭して示していきたいと思っています。

文=遠藤拓己

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