未成熟な敏感肌市場を開拓
32歳のとき、小林氏に転機が訪れる。ディセンシアの代表取締役社長に就任したのだ。前年、BtoB事業部から社内公募でディセンシアへ転籍した小林氏は、「敏感肌スキンケア」というまだ未成熟な市場を開拓することとなる。そこで感じたのは、「敏感肌」という言葉そのものが纏う、ネガティブなイメージだった。
他の敏感肌ブランドは「ドクターズコスメ」や「皮膚科でも買える」といった清潔感のあるコンセプトで信頼性を高めていたが、いわば「治療を必要とするもの」「かわいそうなもの」といった印象を覚えたという。そこで芽生えたのは、反骨精神だった。「市場そのものに風穴を開けよう、そこからもっとポジティブな選択肢を提供しよう、と考えました」。
そこで新たに打ち出したブランドステートメントが「敏感肌はもっと美しくなれる」だった。敏感肌に悩む人が、もっと前向きになれるワクワク感と、独自研究に基づいた確かな機能性を打ちだすことにした。結果、小林氏が社長を務めた7年間でブランドの売上は当初の30倍になるなど、飛躍的に成長した。
「働かないおじさん」にはなりたくなかった
ポーラ・オルビス ホールディングスが擁する化粧品事業で7つあるグループ会社、4000名規模の企業体のなかで確かな存在感を見せる小林氏だが、意外にもこの会社を選んだのは「たまたま」だったという。
「就活するのが本当にイヤで、真面目に考えていなかった。たまたま受かったのがポーラだったから、というだけの理由で……強い思いなんて何もなかったんです」。だが当時、ポーラは年々厳しくなる訪問販売モデルに危機感を抱き、人との関係構築によって売上を上げるだけでなく、確かな技術と付加価値で「選ばれる」ブランドを生み出していこうと、その年を「新創業宣言」とし、新たな経営戦略を打ち出していた。
「これから新しいものをつくっていこうとする機運が感じられて、率直に面白そうだと感じたのです」
けれどもその期待感は、一気に裏切られる。小林氏が目にしたのは、一部の管理職や役員など重役についた社員たちが、「今さらブランドなんて言っても…」と陰口を叩き、ろくに仕事をしない現実だった。
「もう彼らも定年で辞めてるから時効でしょうけど、“働かないおじさん”がたくさんいたんです。ずっと新聞を読んで、たまに予算管理表を見たかと思うと、数字だけを見て良い人には赤丸、悪い人には×、みたいな。そして当然のように17時半くらいに帰る。この人たちはいったい、何をしに来ているんだろう……そこで僕は決めたんです。自分は既得権益を守るような人間にはなりたくない。本質的にリベラルでいよう、と」