世界38カ国、800万人が愛読する経済誌の日本版


彼が登場する前、将棋界は苦境にあった。スマホゲームや動画など新たな娯楽が台頭する中で、昔ながらの将棋は競技人口を減らしていた。トップ棋士がコンピューターソフトに敗れたり、スマホを使ったカンニング疑惑が浮上したりと、プロ棋士の存在意義を揺るがすような出来事も相次いだ。

しかし藤井の活躍が、そんな暗雲を吹き飛ばした。彼の快進撃は、多くの人々にエキサイティングな将棋の魅力を伝えた。藤井の謙虚な振る舞いや豊富な語彙力がクローズアップされたことで、将棋の教育的効果にも注目が集まった。閑古鳥が鳴いていたまちの将棋教室にたくさんの子どもが集まり、盤駒や関連グッズも飛ぶように売れた。

地方で暮らす14歳の少年が、たった1人で将棋ブームという社会現象を起こしたのだ。



藤井という天才を育てた環境と師匠たち

ここで藤井聡太の歩みを振り返ってみよう。彼は名古屋市の中心部から東に20キロ離れた愛知県瀬戸市で生まれた。父親は大手住宅設備メーカーに勤めるサラリーマンで、母親は専業主婦。将棋とは無縁の一般家庭に育った。

将棋との出合いは幼稚園児のころ。祖母がたまたま買ってきた入門用の将棋盤で遊び、のめり込んだ。最初は祖父母が相手を務めたが、あっという間に歯が立たなくなった。そこでつてをたどり、高齢者施設で腕に覚えがあるお年寄りと指させたりもしたという。

「はやくおじいさんになって、いっぱい将棋が指したい」。幼い藤井は、そんな無邪気な名言を残している。

子どもの自主性を尊重し、やりたいことをやらせる大らかな家庭で、才能が芽吹いた。それを育てるには、栄養たっぷりの土壌が不可欠。その役割を果たしたのが、近所にあった「ふみもと子供将棋教室」だ。熱血指導者の文本力雄との出会いが、藤井の才能を飛躍的に伸ばした。

文本の教室は、とりわけ基礎と礼儀を重んじる。幼児でも一人前として扱い、時に厳しく指導する。幼稚園の年中から通い始めた藤井は、当初漢字が読めなかったため、母親の助けを借りて分厚い定跡書を覚えた。

後に最大の武器となる終盤力を培った詰め将棋との出合いも、この教室だった。江戸時代の寺子屋を思わせる雰囲気の中、昇級を懸けた真剣勝負で他の生徒と切磋琢磨した彼は、さまざまな大会で優勝するまでに成長。小学4年でプロを養成する奨励会に進み、教室を巣立っていった。

この際、文本は「『名人になる』ではだめだ。名人を超えろ」と激励したという。藤井も地元ラジオに出演し、「名人を超えたいです」と抱負を述べている。藤井はプロ入り後も常に高い目標を掲げ、「まだまだ力が足りない」と謙虚な姿勢を崩さない。その背景には、幼心に強い向上心を植え付けた恩師の影響があるのだろう。

そんな文本からバトンを受け継いだのが、プロ棋士の杉本昌隆だ。将棋会館がある東京と大阪に偏重した将棋界では珍しく、名古屋在住の棋士として孤軍奮闘してきた杉本は、奨励会の前段にあたる「東海研修会」で藤井に出会った。そして、その天賦の才を早くから見抜き、自分のやり方を押しつけることなく導いた。人脈を生かし、さまざまな棋士と練習対局させるなど、側面的な支援も続けた。

「師弟というより、棋士同士として接してきた」と杉本はいう。弟子の才能を純粋にリスペクトできる師匠は、藤井にとって共に棋道を追究する同志となった。

文=岡村淳司 写真=日刊現代/アフロ

VOL.41

若きホテルプロデューサー、龍崎翔子が探し求...

VOL.43

押し入れからカンボジアへ コオロギと世界の...

PICK UP

あなたにおすすめ

合わせて読みたい