経済・社会

2019.08.24 08:30

世界1000万部突破のミシェル・オバマ回顧録『マイ・ストーリー』、いよいよ日本版発売

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昨年11月に刊行されたバラク・オバマ元大統領夫人、ミシェル・オバマの回顧録『Becoming(ビカミング)』が、全世界で1000万部以上売れている。その翻訳書『マイ・ストーリー』もこのたび、集英社から刊行された。
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英国BBCによると、本書の版元「ペンギン・ランダムハウス」の株式を75%保有するドイツのベルテルスマン社は、オバマ元大統領の回顧録とセットで、2人に先払い原稿料6000万ドル(約67億円)を支払ったという。「『Becoming』は出版史上もっとも売れた回顧録となると思う」。トーマス・レイブ、ベルテルスマン社チーフエグゼクティブはコメントしている。

英紙「ガーディアン」も、「これは文学史における『現象』である」と報じた。

オバマ元大統領も昨年末、フェイスブックで、今年読んだ本(「Obviously my favorite(もちろん私のお気に入りの1冊)」の注釈つき)に妻の本を挙げている。
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ミシェル・オバマの人気は本書刊行前からすでに不動で、たとえばツイッターのフォロワーは実に1330万(前任のファーストレディーであるローラ・ブッシュのフォロワーは27万8000)。今年2月のグラミー賞授賞式のステージにはレディー・ガガとジェニファー・ロペスと手をつないでサプライズで登場し、総立ちで歓声を送るオーディエンスに「音楽は、自分の物語を紡ぐのにいつも力を貸してくれました」とスピーチした。


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ガーディアン紙によると、ヒラリー・クリントンのスピーチライターを務めたリサ・マスカティーンは、「彼女は今やロックスター。政界のセレブね」とコメント。また同紙は、「トランプが政権を取って久しい昨今、『あの夫婦がホワイトハウスに住んでいた頃』を懐かしく思うムードが世界に蔓延していることも、本書が記録的ベストセラーとなっている理由の一つ」とも書く。

ヒラリー・クリントンは22%、ミシェル・オバマは65%

ファーストレディーによる自伝として、本書は異例に「ホワイトハウス前の人生」が長いようだ。

たとえば、オバマ夫人の前のファーストレディーの著書『ローラ・ブッシュ自伝:脚光の舞台裏』は、489ページ中、夫の大統領就任まで、つまり「ホワイトハウス前」が184ページで、全体の38%だ。

『リビング・ヒストリー:ヒラリー・ロダム・クリントン自伝』にいたっては721ページ中、157ページ目の章タイトルがすでに「大統領就任式」。「ホワイトハウス前」が全体の22%にすぎない。

では『Becoming』は? 筆者が聴いたオーディブル版(音声ブック)の録音時間19時間3分中、「夫の大統領就任まで」は12時間22分。「ホワイトハウス前」が実に65%にもなる。

著者は、大統領選出馬前の夫がワシントンDCに勤務するようになっても、自分の仕事をやめず、子どもたちとシカゴに住み続ける(そのために政治家夫人からの「サロンへの誘い」も断るが、これは前代未聞のことだったらしい)が、本書の構成からも、夫やホワイトハウスが「あってもなくても自分、それが私」の声が聞こえてくるようだ。

「オーディブル版」はミシェル・オバマ本人が朗読

筆者は本書をオーディブル版(音声ブック)で聴いた。

ミシェル・オバマ本人の朗読だけあって、実父を失くした朝の描写では思わず読む声が詰まるし、トランプ現大統領がバラクの出生地疑惑(ハワイではなく実はケニアで生まれていて、米国大統領の資格がないとする説)を喧伝し、「家族を危険に晒した」ことを「決して許さない」と読む声は怒りに震える。

そして著者自身、本書中で「I’m a detailed person.(私は細部にこだわるタイプだ)」と繰り返しているが、その通りに記憶も確かで、描写は実に微に入り細にわたる。とくに本人でなければ回想し得ない小さな、チャーミングなエピソードが無数に散りばめられていて楽しい。たとえば、シカゴの法律事務所でのバラクとの出会いから、行きつけの店「ジンファンデル」での、膝をついてのオーセンティックなプロポーズ、ケーキと一緒に運ばれてきたエンゲージリングのこと。

結婚生活は常に満帆だったわけではない。子供が生まれた後、「帰るよ」のメッセージの後、寄り道してジムでエクササイズしていて帰宅が遅れたバラクに激怒したこと。不妊治療と体外受精の末、「ジンファンデル」に、生まれたばかりのマリアを連れて食事を取るようになった余裕のない日々。そして出産後、働き方を「週20時間」の時短に変えたものの仕事は忙しいまま、減ったのは給料だけで、失敗したと痛感したこと。

大統領選に出馬しますか、とメディアに聞かれたバラクが「これは家族の決断。ミシェル次第だ」と答えた時、「世界が私の答えを待っている(”It was on me.”)。もしかしたら世界を変えるかもしれない夫の大統領選出馬が、自分にかかっている。世界がかたずを飲んで見守っているよう」だったこと。覚悟を決め、夫の応援演説で国内を回り始めたものの、自らのとある一言が、選挙の動向に一筋の影を落としたことへの悔しさ。

大統領就任が決まった日の真夜中の風景の追憶はとりわけ感動的だ。防弾ガラスに囲まれて勝利のスピーチをする夫、見守る6900万人の聴衆たち、シカゴの湖畔の、11月にしては異例の暖かさと、やはり異様なほどの静寂の記憶。

続くファーストレディー「就任」後の毎日の描写も実にみずみずしい。たとえばG2サミットの晩餐でのエピソードと失敗、大統領専用機エアフォースワンで夫と出かけた、マンハッタンでのディナーデートのことなど。

「世界でもっとも厳重に守られた男となった夫」の身辺描写も圧巻だ。なにしろ外出の際には必ず、戦車を含む20台もの車に前後を護衛されるし、大統領専用車は外観こそ超高級リムジン車だが、中身は大砲装備の「戦車」だというのだ。さらにそこには、万が一のための「あるもの」も積まれていて……。

脆さへの恐れ、再生への憧憬

さて、売れ行き1000万部という出版史に残る快挙の理由は何なのか。まずは言わずと知れた著者自身のカリスマ性。そして、ブルーカラー・ワーカーが住むエリアで育った、決して裕福でない少女時代の描写は読者と著者の距離を冒頭から縮める。教師から「プリンストン大なんて絶対無理」と言われながら初志を貫徹した不屈さや、「一度も政治が好きだったことはなく、今でもそれは変わらない」という率直さも世界中の読者の心をつかむのだろう。

が、ほかにも、人間の、または世界の「傷つきやすさ」を人一倍恐れる彼女の、決してタフなだけでない素顔が共感を呼んでいるのではないだろうか。

著者は本書中で、人間の「resilience and vulnerablity(「自発的治癒力と脆弱性/傷つきやすさ」。心理学でもよく言及される対立概念)」について繰り返し書いている。夫に24時間密かに寄り添う覆面大砲とライフル銃。家族の行動は分秒刻みに報告され、娘の学校行事にもイヤホンをつけたシークレットサービスが同行する。そこまで厳重に守られていることが雄弁に物語る、うらはらな危険。権力を手に入れてこそ感じる自分たち家族の「脆さ」は、計り知れなかっただろう。

「再生する力と脆弱さ」についての意識は、たとえば「フロリダ乱射事件」に直面した夫の苦悩(オバマ前大統領の「涙の会見」は大きく報道された)に接し、犠牲者の家族とも関わって、生命や幸福の脆さに晒されたことでも高くなったかもしれない。さらに、夫の在任中には、夫妻が心を痛めた東日本大震災もあった。

彼女が描写するバラクの魅力に、「ナイーブ(純粋すぎて騙されやすかったり、傷つきやすかったりする傾向)には陥らない楽観」がある。ミシェルが夫のその「現実主義でいながら楽天的でいられる本質」に惹かれ続けるのは、人の再生力に期待しながらも「脆弱さ」を人一倍恐れる彼女の傾向に、理由があるのかもしれない。

よく知られたタフネスとは表裏の、著者のそういう「繊細さ」が本書の第2の通奏低音にもなっていて、自分だけが知り得たミシェルの素顔のような錯覚を起こすし、人にもなんだか話して自慢したくなるのだ。

全編を聴き終えた後、「まえがき」に戻ってみた。そこには、8年間のファーストレディーとしての務めを終え、シカゴに住まいを定めた後の明け方、ふと目を覚ました著者がキッチンに降りる描写がある。静寂と黎明のうすい光の中、8年ぶりで「誰にも世話されず一人で」トーストを焼く著者の心象が改めて鮮やかだ。

ファーストレディー。それは、大統領と違って定められたジョブディスクリプションも義務もない、給料手当もない、実に不思議な身分だ、と語る著者が、「元ファーストレディー」というこれまた非公式な身分を始めて2年。毎朝のトーストはようやく1人で焼けるようになっても、未曾有のベストセラー著者となった彼女を取り巻く世界は、かえってこれから、騒がしくなりそうだ。

文=石井節子

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