19歳のそのころ、一通の英文メールが届いた。現在の職場であるILMからだった。海外の作品投稿サイトにアップした作品を見て、面接を受けないかと打診してきたのだ。ところが当時の田島は「英語の成績は2。『HELLO』のスペルも間違うほど」。英語力のなさが原因で、面接までこぎつけられず、結局話は流れてしまった。田島は苦笑まじりに語る。
「夢だったハリウッドで働けるチャンスを自分の実力のなさでだめにしてしまった。悔しくてたまらなかったですが、落ち込んでいる暇はないと気持ちを切り替え、その日からパソコンの設定言語を英語に変え、単語帳を手に勉強し始めました」
専門学校を卒業した田島は、ハリウッドへの夢はそのまま、フリーランスのモデラー(デザイン画から3Dの立体データにおこす仕事)としてキャリアをスタートさせた。
モデラーからコンセプトアーティストへ
夢へと猪突猛進する中で、後ろ向きな言葉を投げかけられることもあった。アルバイト先では、「ハリウッド映画に携わる」と宣言すると、「難しい仕事だよ」「無理なんじゃない?」などと一笑に付された。だが田島は動じなかった。「アホだなー、俺はできるぞと思っていました」。そう笑う。
教師からこう言われたこともある。「クリーチャーは、業界トップの数人だけが作る狭き門だから、やめたほうがいい。建築パースや背景、車や携帯電話などの工業製品のCGを作ったほうが仕事になるよ」。だが、世界一を目標に据えていた田島は、「僕は映画のキャラクターをつくりたいだけなので」と意に介さなかった。
なぜ他者の意見に揺らぐことなく、自分を信じ続けられたのか。
田島はイラストレーターだった母の影響を挙げる。絵の技術を教わったことはないが、一貫して言われたのは「やればできるんじゃない?」という言葉だった。「だから素直に自分はやればできるんだろうと思っていました。18歳まではやったことがなかっただけで」
社会に出た田島は、日本映画の怪獣やドラゴン、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンのポスターに使うスパイダーマンなどのCGを手掛けていた。体力の限界まで仕事を詰めこみ、大変だが充実していたという。
オリジナル作品のスケッチ(一部抜粋)
「ただ、当時やっていたモデラーというのは、誰かのデザイン画を立体化する仕事。でも本当は、自分でデザインしたキャラクターを動かしてみたかった」
フリーのモデラーとしての生活は1年で終わる。2度目の転機が到来したからだ。
冬のある日、ロンドンに本社のあるVFX制作会社「DNEG(旧ダブル・ネガティブ)」の日本人アーティストから連絡があった。ツイッターで知り合った人で、同社は「007」「ハリー・ポッター」シリーズやハリウッド映画を数々担ってきた大手だ。「うちのモデラーの仕事に興味ある?」と打診された田島は、「もちろんあります」と即答。2012年春、同社シンガポール支社に所属することになった。
出社初日、モデラーとして採用されたはずの田島は、クリエイティブディレクターからこう告げられた。
「コンセプトアーティストをしてもらうよ」
寝耳に水だった。そんな職業があることさえ知らなかったという。