孤独なステファニーが心の底で求めているのは、愛だろう。しかし「過剰」さの中にあるアリには、まだそのことが理解できない。
そもそもアリは、寂しさから痛々しいSOSを出している息子サムの愛し方もよくわかっていないし、欲望はゆきずりのセックスで解消している。従って、彼はステファニーの欠落感もセックスで解消できるのではと考える。
「ヤるか? 嫌ならいいよ」「したくなったら電話しろ。すぐ来る」という言葉はあまりに身も蓋もないとも言えるし、まだ傷の癒えない相手の中に必要以上に入り込まない、アリなりの配慮とも言える。
アリは本質的には優しい男かもしれない。ただその表現を仕方を知らないのだ。これはドラマでは、アリが下層階級でいささか粗野な性格だからという理由がつけられるが、男性一般の傾向として見ることも可能ではないだろうか。男女のすれ違いもそんなところから起こることが多い。
だがアリの即物的な対応とセックスは、結果的にステファニーに活力をもたらす。まさに性の回復が生の回復へと繋がっている。義足をつけ職場復帰した彼女が、ガラス越しに自分の脚を奪った巨大なシャチと静かに対面しているシーンは、息を呑むような荘厳さだ。
セックスはあるが淡々としたアリとの交流が続く中で、ステファニーの中には徐々に割り切れない思いが溜っていく。アリは優しい。だがそれは愛ではない。「私は何なの?」という彼女の問いに、アリは答えられない。
後半、車を買い、太ももにタトゥーを入れ、ボスに替わってムエタイの試合を仕切るまでになったステファニーの、目を見張るような強さの獲得とは対称的に、アリには転落が訪れ一人で姿を消す。
アリの苦境は、彼の想像力の欠如が招いたことだ。父親として幼い息子の心情を思いやろうとしなかったこと、目の前にいる女をちゃんと見つめていなかったこと、請負仕事が自分と同じ貧しい人々をどれだけ苦しめるか理解できなかったこと。
しかし彼は最後、大切なものを丸ごと失いかけて初めて、愛とは何だったかを知る。
そんな中、自らの「欠損」と相手の「過剰」がただ補い合うだけではなく、同じ目線を共有して再度巡り会うまで、ステファニーはアリを待っていた。彼女がアリを見捨てなかったのは、「闘う身体」であるアリに刺激されて自分が生きる歓びと活力を取り戻したことを、決して忘れなかったからだ。
映画連載「シネマの女は最後に微笑む」
過去記事はこちら>>