今年、ついに花粉症を発症してしまって……。というセリフを毎年耳にする。特に何かいつもと違うことをしたわけでもないのに、毎年浴びている分が溜まり、ある日突然発症する花粉症。花粉症だととてもポジティブな気分になれないけれど、もしもある日突然、何かの能力が発症したらどうだろう。少しワクワクした気分になりませんか。私はこのモデルにより、4度にわたり「外国語」を発症してきた。早速、発症方法を説明しよう。
両親の仕事の都合で6カ国を転々とし、言語もほぼ毎回変わる環境で育ったと言うと、「言葉を覚えるの大変だったでしょう?」と聞かれるが、特に何もしてないというのが私の本音だ。当時、子どもだったので「外国語」や「文法」という概念をまだ理解していなかった。さらに、人見知りだったこともあり、学校ではとりあえず何もせずとにかく周りをよく観察し、一言もわからないまま会話をひたすら浴び続けた。「今、何って言ったのかなあ」と思いながら。
では、それぞれの学校でどうしていたのか。
日本では、周りの同級生の会話をただただ聞く。意味はわからないし、自分は恥ずかしがり屋で喋らない。イタズラをして、怒られて、怒り方に詳しくなる。真似してみる。日本語だと思っていたけど、実は英語で話しかけてくれてたなんてこともあった。でも、それさえも気づかなかったことも。
フランスでは、クラスで流れていた歌を覚えて真似して歌う。歌の意味はまったくわからない。メロディーで発音や単語の区切りを予測する。間違えてたこともしばしば。自分のセリフはまったくわからないなか、クラスの演劇で重要な役を任された。
アメリカでは、ニコニコしながらただ周りの会話を聞く。絵がたくさんある本を眺める。絵以外はわからない。絵と言葉の組み合わせから意味を予測。正解は確かめない。全然思っていたのと違うこともしばしば。休み時間の校庭がいちばん話していることを予測しやすい。動きがあるから。
イギリスでも、休み時間になると体を動かしながら、みんなの会話を聞く。あ、「なわとび」って多分この単語かなあなどとここでも予測を繰り返す。
今まで覚えた別の言語に似た言葉があったら、そこから意味を予測する。でも大体は外れる。時々当たると嬉しい。わかるまでこれをずっと繰り返す。とにかく、「わからない」が当たり前で、「わかる」は奇跡というスタンス。これが、重要なポイントだ。
次第に見聞きした言葉がどんな言葉の前後によく来るのか(単語だけ覚えてもつながっていかない)、どんな時にみんながそれを喋るのか(状況や表情など)の経験が蓄積され、意味の大枠を予測できるようになる。予測がつながって、パターン化され、ある日突然「もしかしたらこういうことかも!」とわかるようになる。
そうなれば、X-rayのようにルールや仕組みが見通せるようになり一気に理解が広がる。まさに、発症。ポイントは、100%の理解を目指さないこと。70〜80%の精度でわかればOK。残りの約20%はミステリーとして常に想像力を試し、好奇心と予測する力を鍛えてくれる。これが「わからない」への恐怖を抑えてくれる。わからないことがあるのは「ふつう」になるから。