キャリア・教育

2019.08.22 11:30

自分は「変な体型」。生きるか、死ぬかの境目から始まったモデル道|冨永愛 #30UNDER30

冨永愛


1年間のうちにニューヨーク、ミラノ、パリを子供を抱えながら行き来する生活が始まりました。現地でベビーシッターを頼んだり、周りにサポートをお願いしたからこそできました。ランウェイのバックステージに子供を連れて行っても何も言われませんでした。子供を仕事場に連れて行くことに関しては、日本よりも海外の方が寛容だと思いました。
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キャリアの頂点で引退宣言

出産や子育てによって仕事観は変化しましたが、私のモデル人生は、アジア人であるという壁と戦い、欧米人のモデルの人といかに対等に扱ってもらえるかがいつも焦点でした。そこで2010年、ヘアカラーを金髪にしてパリコレに行きました。アジア人の象徴である黒髪を金髪にしたらどうなるかを試したかったんです。

当時のジバンシイのデザイナーに会うと「素晴らしい」と言ってくれて、他のショーには一切出ずにジバンシイのランウェイのみ出るエクスクルーシブという特別な契約を結ぶことができました。これは、モデルにとってはとても名誉なことです。
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そのタイミングで、「ここまで来れたから、もうやめよう」という気持ちになりました。その年に海外を巡るコレクションモデルの引退宣言をします。私の中ではモデルをやり始めて10年。次のステップに進むタイミングでした。また、子供の幼稚園などのことを考えると、一つの場所にいた方が良いと思ったのです。

引退宣言後は、日本でのテレビやラジオの仕事が忙しくなりました。子供が小学3、4年生の頃、体力的にもきつくて、体を壊してしまいました。あの時の記憶はほとんどありません。仕事をこなしているつもりになっていただけで、一つ一つを丁寧にできていなかったんだと思います。

まだ幼い子供の大事な時期に一緒にいた方が良いと思ったので、少しずつ仕事の量を減らしました。その流れで期限を決めずに、休業に入ります。結果的に2017年秋まで3年間お休みしました。

休業中は、ファッションの世界とは距離を置いて、情報も全くチェックせず、母親として子育てに専念しました。私にとって楽しい日々でした。それから中学生になった息子から「そろそろ仕事したら?」と言われこともあり、復帰しました。


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文=督あかり 写真=小田駿一

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