自分は「変な体型」。生きるか、死ぬかの境目から始まったモデル道|冨永愛 #30UNDER30

冨永愛


そんな私の制服姿がそのままVOGUE JAPANに載ったことで、海外のモデル事務所に注目されましたが、当時は仕事にすることなど何も考えていませんでした。モデルに憧れていた訳でもないし、VOGUEがどれほどすごいのかも知らなかった。すごく生意気だったと思うけど、「ただ自分の制服の写真が載っただけ」とクールに振舞っていました。

でも、仕事で出会った大人たちの後押しもあって、17歳の春休みにニューヨークに行き、NYコレクションに挑戦することになりました。海外に行くのは初めてで、全く英語も喋れなかったけれど、前に進む大きなエネルギーだけはありました。10代で成長して行く中で、何かを掴み取って行く感じがすごく楽しかった。でも、ハッピーな楽しさではありません。「生きるか、死ぬか」という境目で、自分が生きて行く場所を見つけたかったのだと思います。

当時の私のモチベーションは、「勝っていくこと」。海外でモデルの仕事を始めると、私と同じような体型の人が多くいて、そこでアジア人が勝負してどう認められるのかを試したかったんです。アジア人だからという理由で、勝負にならなかったり、あからさまに避けられたりすることも多く、そういう悔しさをモチベーションに、楽しんでいたのだと思います。

17歳で海外に出て18歳でコレクションモデルになって、周りからはトントン拍子でトップモデルになったと思われることが多いですが、実際には超えられない壁があって、悔しいことだらけでした。この歳になった今でも、トップモデルの地位を築いたなんて思ってはいません。



出産して仕事の楽しさに気づく


海外でランウェイモデルの仕事をするさなか、私のそれまでの人生が劇的に変わる出来事がありました。2005年に23歳の時、息子が生まれたことです。私にとって「人生最大の素敵な贈り物」でした。それから、自分にとっての優先事項は、キャリアよりも息子の「命」になりました。

モデルの世界は、3年ごとに顔ぶれが入れ替わるような流行り廃りの世界です。出産したら自分のキャリアはどうなるか分かりません。戻ってきた時に「もう必要ない」と思われるかもしれないけれど、そうなってもいいやって思いました。

結局、私は6ヶ月間休んで、パリコレに復帰しました。子育てしながらもコレクションモデルとしてランウェイを歩き続ける選択をしたのです。それまでは「勝ち負け」にこだわり、戦ってきましたが、休んでいる間に、純粋にモデルの仕事が好きなんだと気付きました。それからは大変だったけれど、本当の意味で仕事を楽しめるようになりました。
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文=督あかり 写真=小田駿一

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