遠藤保仁、偉業の先に見据えるもの「もっと楽しく、もっと上手くサッカーがしたい」

遠藤保仁(Hiroki Watanabe / Getty Images)


ジーコジャパンそのものも大きな期待を寄せられながら、ひとつの白星もあげられないままグループリーグで敗退した。後に遠藤自身に聞いたことがある。あのドイツ大会が、サッカー人生で一番悔しかったのか、と。返ってきたのは意外な大会名だった。
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開幕するまでにけが人が出て入れ替わらない限りチャンスが訪れない、予備登録メンバーとして現地まで赴いた2000年のシドニーオリンピックが、遠藤のなかで長く原点として刻まれてきた。

「ドイツ大会は自分にとっても初めてのワールドカップで、選ばれただけでも嬉しいという気持ちもあった。ピッチに立てなかったことはもちろん悔しいけど、シドニーオリンピックでは現地まで行ったのに一緒に練習することもできなかったし、みんなが活躍して注目されていくのをスタンドで見るのも何となく嫌だった。一方でもっと勝ち上がってくれという気持ちもあって、非常に難しい立場でしたね。予備登録メンバー同士ならばまだ愚痴を言い合うこともできたんですけど、僕は主力だった(中村)俊輔と同部屋だったので、チームの雰囲気を乱すのはまずい、と思って。でも、若いときにああいう経験をしたからこそ、少しぐらい外されても自分の力で取り戻す、と思えるようになりました」

1000試合のなかで最も記憶に残っている一戦を問われれば、迷うことなく自身のデビュー戦をあげてきた。強豪・鹿児島実業高から、いまはなき横浜フリューゲルスに加入した1998年。完成したばかりの横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)で3月21日に行われた、横浜マリノスとのファーストステージ開幕戦が遠藤の大記録の出発点となっている。
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「プロとしての第一歩だったので、あの試合はよく覚えています」

FCバルセロナを率いた経験をもつカルロス・レシャック監督に見初められ、高卒ルーキーながら先発メンバーに抜擢。堂々のフル出場を果たし、5万2000人を超える大観衆が見守るなかで、延長戦の末に2-1で勝利した一戦で、フリューゲルスのゴールマウスを守っていたのが楢崎さんだった。


(Masahiro Ura /by Getty Images)

そのシーズン限りで消滅し、マリノスへ吸収・合併されたフリューゲルスのメンバーで、いまも現役でプレーしているのはついに遠藤だけになった。フリューゲルスからグランパスに移籍し、昨シーズン限りでユニフォームを脱いだ楢崎さんがもつJ1最多出場記録を、いよいよ視界にとらえた。残り試合の数を見れば、今シーズン中にも追いつき、追い越すことが可能だ。

「できれば抜きたいな、と。でも、こればかりはやってみないとわからないので、ひとつの目標としてリスペクトの思いを抱きながら、目指していければいいかなと思いますけど。ポジションは違いますけどやはり大先輩の記録ですし、ここまで来てあらためて正剛さんの偉大さも感じているので」
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文=藤江直人

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