ベーブ・ルースの伝説と共に歩んだバット会社

1948年、ヤンキースタジアム開場25周年及び背番号3の永久欠番式典に出席するベーブ・ルース。(Photo by Library of Congress/Corbis/VCG via Getty Images)


昨年、旧ヤンキースタジアム跡地を訪れた。ニューヨークに住んでいた頃、頻繁に通った思い入れのある場所だ。2008年、この球場での最後のオールスター戦や9月21日の最終戦も観戦した。球場が取り壊されて10年経とうとしているのに、ここを訪れるのは初めてだった。ルイビル・スラッガーの巨大バットは、球場が取り壊された今も、当時のままの場所にあった。これは宣伝物としては世界最大規模に入るという。

跡地には草野球球場ができていて、センター後方には、ヤンキースタジアムのシンボルであるファサードまである。なんて贅沢な草野球場だろうか。ホームベースやピッチャー・マウンドも、旧ヤンキースタジアムと同じ場所にある。そこは、ルースだけでなく、数々の名選手が打席に立った場所だ。数えきれないほどの投手がそこで投げた。1956年にドン・ラーセンがワールド・シリーズ史上唯一の完全試合を達成した場所でもある。松井秀喜を始めとする数多くの日本人メジャー・リーガーもここでプレイした。

草野球球場の周囲は、遊歩道になっており、1923年の開場から2008年の閉場までに、この球場で起こった数々の出来事を記したプレートが埋め込まれていた。一つ一つ、丁寧に読み上げ、写真や映像で見たシーンを思い出しながら、時より目の前にある草野球場を振り向き、一歩一歩前に進んだ。すると、誰かの視線を感じたので、その方向を見上げた。そこには巨大バットがあり、それがルースのような気がした。

冬の寒空の下、巨大バットに化けたルースがヤンキースタジアムを見守りながら、「そこに記されている歴史なら、俺はすべて知ってる。俺はこの球場の開幕戦で最初の本塁打を打った。1927年にこの球場でシーズン60号本塁打を記録したが、1961年にロジャー・マリスに更新されてしまった。1947年のベーブ・ルース・デイには4.8万人も来場してくれた。1948年の開場25周年・永久欠番式典のことはよく覚えている。その2か月後に、この球場で俺の葬儀が執り行われ、20万人もの人々に見送られた。この球場が取り壊された時は寂しかったな」と、語りかけられているような気がした。日が沈み、薄暗くなってきた。そんなことを考え出すと、そこから動けなくなっていた。


数多くの名選手がプレイした旧ヤンキーススタジアム跡地。左奥にはバットの形をした排煙筒(著者撮影)。

ルイビル・スラッガーは、2008年にこのルースの建てた家が閉場した頃から、業績が悪化した。あれほどまでシェアを誇っていたのに、このバットを使用しているメジャー・リーガーはほとんどいなくなっていた。2015年、ルイビル・スラッガーは、大手のウィルソンに買収されてしまった。選手を支える道具もまた時代と共に歩んでいるのだ。

連載:「全米球場跡地巡り」に感じるロマン
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文=香里幸広

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