ビジネス

2019.08.19

20億本のナッツバーを売った男が語った 対立する民族をビジネスでつなぐ方法

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「カインド」の誕生

ルベツキーが再びひらめきを得たのは、ピースワークスの商品を売るために世界中を行商している時だった。

「世界を歩き回っていたが、食べたいと思えるものがなかった」と、彼は言う。「無添加で、手に入れやすく、おいしくて、健康的。そういうものがひとつも見つからなかった。単純に、自分が食べたいものを作りたくなったんだ」

04年、ピースワークスのささやかな利益を投じ、仕入れ先との交渉には倹約第一で臨み、ルベツキーは10万ドルでカインドを創業する。当初はピースワークス時代にすでに取引のあった小規模な高級店に的を絞った。「本社を訪ねて、バイヤーに商品をプレゼンすることはしなかった。店舗をひとつずつ回ったんだ」と、ルベツキーは言う。

「そういう店のリーダーはたくさんの仕事をこなしている。段ボール箱をたたみ、在庫をチェックし、発注もする」。

ルベツキーは店長や店員が品出しするのを手伝い、店の奥の倉庫まで追いかけ、押しかけで一緒にランチをとりながら、その間ずっと自社の商品を売り込み、ナッツバーの味見を勧め続けた。彼らが発注を出してくれるまで。

はじめから順調だったわけではない。

07年には、配送中に商品を紛失し期日までに納品できなかったことで、大得意先のウォルマートを失った。

翌08年の金融危機では、創業以来最高の売り上げかつ黒字でありながらキャッシュフローに支障を来す。タイミングも悪かった。夫妻の第一子が妻のお腹にいたのだ。08年12月、ルベツキーは息子が誕生した3日後に、カインド株の3分の1をビタミンウォーターの創業者とプライベート・エクイティ会社であるVMGパートナーズに1500万ドルで売却した。

ただ、それはカインドにとって必要な後押しだった。08年にカインドが配った試供品はわずか800ドル分。09年には新たな出資者にせっつかれ、その予算を80万ドルに増額した。これが奏功し、09年以降、同社は急拡大を遂げる。現在では2000万ドルの予算が、配布要員への賃金や試供品のコストに充てられている。

「振り返れば当たり前のことに思える。より多くの人々に味見してもらうというシンプルなことが必要だったんだ」と、ルベツキーは言う。

財務が回復した14年、ルベツキーはVMGから持ち分を買い戻した。2億2,000万ドルと報じられた購入代金は借り入れでまかなった。

15年3月には、米国食品医薬品局(FDA)から警告が届く。不当表示で消費者を欺いており、今後「ヘルシー」という単語を使ってはならないという内容だった。FDAの決定は脂肪の含有量に基づいていた。バーにはアーモンドが多く含まれていたため、脂肪量が許容値を超えたのだ。「このことは忘れて次に進んだほうがいい、そう多くの人に言われたよ。だけど、医師や科学者、栄養学者に助言を求めるなかで、彼らと共に規制は理にかなっていないと確信した。FDAの規制の下では、アボカド半個分ですら『ヘルシー』の範囲外だったんだ」
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文=エンジェル・オーユン 翻訳=町田敦夫 編集=杉岡 藍

この記事は 「Forbes JAPAN 社会課題に挑む50の「切り札」」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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