がん宣告から5年。「地味な大学教員」だった私がアートを始めた理由|脇田 玲 #30UNDER30

アーティスト、計算機科学者の脇田 玲


そのあとしばらくは、本当に地味な大学の先生でしたね。自分の会社を経営しているときとは違って、やらなきゃいけない仕事は上から次から次へと降ってくる。馬車馬のように働きました。忙しすぎて、いまのように自分がプレイヤーとして研究や創作をすることはできなかったです。

大学で働きはじめて5年目かな。たまたま上の先生たちが他のキャンパスに新しく大学院をつくるということで、SFCから移っていったんですよ。上がぽっかり空いたので、「ラッキー、好きなことができるぞ」と意気込んでいましたね。そうして2008年に、「X-Design」というデザインエンジニアリングを学ぶプログラムを立ち上げたんです。

X-Designの立ち上げから6年たった39歳のとき。自分も教授になって、研究者として新しいことを始めようと思っていた矢先に、がんになっちゃったんです。

よしこれからってタイミングで、なんで自分がこんな目にあうのかと思いました。5年間の生存率がデータで公開されていて、その間に再発や転移がなければとりあえず寛解。でも逆を言うと、何%の確率で死ぬという事実と直面するわけです。

いまがその5年目なんですけど、いやー、本当に人生って分からないですね。

病室でぼーっと考えているときに、今度こそ本当に自分がやりたいことをやろうと。俺はやっぱアートやりたかったんだよなって吹っ切れたんです。

父親が建築家だったので、子どもの頃からいろんな美術館に連れ回されていたんです。だからインプットの機会はたくさんあって、子どもの頃から絵を描くのが大好きだったんですよ。どこかで、ずっと本当にやりたいことを抑えていたんでしょうね。懐かしいな。やっぱりアートが好きだったんだよね。



自分があと5年で死んじゃうかもしれないという現実の中で、世界がどうなっているかを咀嚼し、自分なりに納得してから死にたいと思いました。そして、その解釈を作品にしたいと思いました。

未来ではなく、今もうすでに分かっていることや世の中の構造を理解したかった。例えば「この部屋の中で風が循環している」と言われても何とも思わないけど、プログラムで描いて、映像作品にすると、普段は見えない風の形が見えてくる。そのような風の知識やイメージを獲得した後では日常が全く違って見えてきます。自分ならではの世界を「見る」ようになります。
次ページ > 自分なりに納得して生きたぞと

文=石原龍太郎 写真=小田駿一

タグ:

連載

30 UNDER 30 2019

ForbesBrandVoice

人気記事