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2019.08.26

パナソニックCNS・樋口泰行社長の「出戻り」物語 今反芻する松下幸之助の教え

パナソニックCNS・樋口泰行社長

日本が「世界の工場」「世界一の家電生産国」でなくなって久しい。

日本のものづくりを担ってきた大企業はどうなる?終身雇用や年功序列が崩壊し、グローバルの波に晒され始めた個人の生き方はどうなる?

2017年4月の就任以降、ドラスティックな改革を推進してきた、パナソニックコネクティッドソリューションズ(CNS)社の樋口泰行社長(兼パナソニック専務執行役員)に話を聞いた。

松下電器の技術者からキャリアをスタートし、米ハーバードビジネススクールでMBAを取得、戦略コンサルに転身し、アップルなどを経て、45歳の若さで日本HP社長に就任した。その後ダイエーの社長、日本マイクロソフトの社長・会長を歴任し、請われて選んだ行き先は、古巣のパナソニックだった。「異例の出戻り人事」と言われた。

聞きたいことがたくさんある。日本企業も外資系も、電機から小売、ITまで様々な分野で経験を積んできた稀代の経営者。3記事にわたり樋口社長の危機感、挑戦、哲学に迫る。


パナソニックCNS社はIoTなど企業向けのシステムやソリューションを担うパナソニックの社内カンパニー。日本の大企業、ものづくりの象徴であるパナソニックのBtoB分野の最先端を担う。

新卒で入社した松下電器。25年ぶりに戻ることになるまで、随分の葛藤があったという。

「新しい風を吹き込める人が欲しい」

日本マイクロソフトの会長を務めていた頃、現・パナソニック本体の津賀一宏社長から「食事でもしませんか」と誘いがあった。日本マイクロソフトの社長・会長時代から津賀社長とはもともと知り合いだったが、改まっての一対一の会食に、少し構えたという。

津賀社長は現在のパナソニックの状況を説明した後、これからの時代を生き抜くためには今のままではいけない、変わらなければいけない、変革のために、社外での経験があり、新しい価値観、新しい風を吹き込める人が欲しい、と言った。

日本ヒューレット・パッカード(HP)の社長、ダイエーの社長、日本マイクロソフトで社長、会長を歴任してきた。「10年やって、正直、結構へとへとになっていました。特にマイクロソフトはものすごく厳しい会社で、プレッシャーがすごいんですよね。全力でマラソンを走ってから、もう一回マラソンを走ってほしいと言われても、なかなか難しい」

回答を保留したまま、4ヶ月ほど考えていたという。

「やるとなったら、やはり自分から『やるぞ』と燃えられるような状況にならないと。中途半端に受けてはいけないと思い、だいぶ長く考えました」。津賀社長は期限を切るわけでもなく、時間をかけて考えてください、と話していたという。

企業カルチャー、ビジネスモデルなど、パナソニック全体が変わるために、先陣を切って新たなことにチャレンジする必要がある。次第にやる気になってきた。「もう一回頑張ってみよう」。条件や待遇の交渉はすることなく、「やらせていただきます」と返事した。



「出戻り」での社長就任にためらいがなかったわけではない。

「昔、いったん辞めた人間というのは、どちらかというと裏切り者という扱いでした。今はだいぶオープンになり、戻ってきている人間も多いですが、私のように役員でとなると、あまり例はない。社内で頑張って昇格した人がたくさんいる中で、『なんで急に』という心情も皆さんお持ちでしたでしょう」

1980年、松下電器に入社。新人時代は溶接機事業部に配属され、作業着姿で粉塵まみれの日々を送った。社内で留学の機会を得て、苦労して米ハーバード大のビジネススクールでMBAを取得。その翌年に退職、ボストンコンサルティンググループに転職し経営コンサルタントの道を歩むことになるが、当時の思いを後に著書でこのようにしたためている。

「一生かけて恩返ししようと考えていた松下を自ら去るのは申し訳なかった」
「社会人としてのイロハを教えてくれた会社、ハーバードにまで留学させてくれた会社を去ろうとしている。自分で選んだ道ではあるが、『本当にこれでいいのか?』との思いが再び頭をよぎった」
(『愚直論』ダイヤモンド社、2005年)

同書執筆当時は、その後自身がカンパニー社長という立場で古巣に戻ることになるとは想像もしていなかったと思われる。憧れて入社した、日本を代表する大企業から巣立つことに後ろ髪を引かれる思いもあったのではないだろうか。

今改めて反芻する、松下幸之助の教え

パナソニックに戻り、改めて触れることになった創業者・松下幸之助の哲学。「入社当時は本当の意味はわかっていませんでした」と話す。

「松下を一度離れて、25年いろんな経験をして戻り、その哲学にもう一回触れたときに、松下幸之助の言葉の重みが改めて分かったような気がしました。3つの会社で社長という仕事をしましたが、そのときに心掛けてきたことが、創業者の考え方と似ていることに驚きました。『経営の基本』を突き詰めるとそこに行くのか、それとも新入社員のときに知らず知らずに刷り込まれていたのか。20代の頃はわからなかった創業者の教えが、社外での経験を積んで理解できるようになっていました」

例えば、「良き市民」であれ、と言う教え。「何のために会社があるのか。株主のため、社員のため、顧客のため、社会のため、といった中で、やはり良き市民にならないといけないと思っています。良き企業市民にならないと社会では受け入れられない。自社の業績のためだけではなく、社会全体のために本当に貢献できる会社じゃないと、長期にわたって繁栄はしにくいということです」

また、人のマネジメントについても共通点を見出した。「やはり心の部分でつながらないと、大きな会社には育てられないということ」

「『みんなで頑張ってお金持ちになりたい』。それはそれでものすごくいいことで、そういう思いがないと社会の活力が生まれてこないのですが、その目的が達成された後に、人がどんどん抜けたり、目標を見失ったりすることがあります。そういった金銭的なリターンを超える、『何のためにやるのか』という哲学があることでベクトルが揃って、会社が大きく育っていくのだと思います」

新人時代に所属していた溶接機器や情報機器関係の事業部に足を運ぶと、当時設計した溶接機がいまもあった。実験室には、自分の書いた図面が残っていた。樋口の印が押してあり、涙が出そうになった。「戻ってきたな」と。

一方で、「全然変わっていない」という危機感も募った。

「私が松下にいた12年間ですら、自分の仕事以外のことはほとんど何も知らないし、知ろうともしない。固定観念で凝り固まっていたところがありました。一度会社を飛び出して、コンサルティングや外資系など競争が激しい世界に飛び込んでみると、なんと自分の筋肉が落ちているか、なんと自分の世界は狭かったのか、いくら勉強しても追い付かないと感じました。ましてや長く一つの会社にとどまってきた人の思いを変えられるのか。すごくチャレンジングですが、やらなきゃいけないと思いました」

断行した東京へのオフィス移転、意識改革

実は、社長を引き受けた当初から考えていたことがあった。東京へのオフィス移転だ。パナソニックCNS社の本社を、創業の地であり松下のアイデンティティとも言える大阪から、東京に移した。

「25年ぶりにパナソニックに帰ってすぐに東京に移すと言うと嫌われるかなと思い、しばらく封印していましたが、実は就任時から考えていました。東京のお客様の前で大きいスーツケースを引いて、『すみません、そろそろ大阪行きの飛行機が』と言っていたら、スピード感についていけない。BtoBビジネスのお客様の8割は東京の東側に拠点があります。東京に本社を移し、とにかく外部との接点、世の中の常識との接点を増やしていく。お客様の力をてこに、体感的に変わらなきゃという意識づけをしたかった」

国内の販売を担う「パナソニック システムソリューションズジャパン」と同じビルに入った。「製造と販売が分かれるのはあまり良くない。『お客様はこうおっしゃっている』、『いや、いいものは売れるはずだ』と対立していても仕方ない。同じビルに入って、直接交流できるようになった」

東京のオフィスは明るい、オープンフロア。固定席のないフリーアドレスで、樋口社長といえども例外ではなく、平場の立ち話で仕事が進んでいく。成長中のスタートアップのような緊張感とスピード感がある。ICTツールも続々導入。セキュリティは自社の顔認証システムだ。ペーパーレス化も進める。



「もう社歌を毎日歌ったりしていたら若い人が辞めてしまうよ。それなら事業場ごとの判断でやめることも決断しようと、どんどん進めていきました。みんなに腹落ちをしてもらってからやるというよりも、まずは『やってみなはれ』で進めました」

同時に社員の意識改革にも努めた。「非常に苦労した」と樋口社長は振り返る。

「結局、形から入っても人のマインドが変わらなければ会社は変わらない。非常にいい時代を経験しましたので、すごく余裕があるし、外資系でしたら1人でできることを3人ぐらいでやっていたイメージもありました。しかし日々の仕事がお客様から対価をいただける仕事に本当につながっているのか、ということを常に自分に問い掛けて、そうでないものはどんどんやらなくてもいいこととしました。本物のビジネスの結果に最短距離で近づけるようにしよう、と」

そしてこう続けた。「これは『全社員一商人の気持ちで』という創業者の言葉に近いかもしれません」

ディシプリンを徹底した。ミーティングが終わったら、次のアクションや個々のコミットメントを明確化させる。毎週、社員が上司に報告するために作成していた週報の廃止も呼びかけた。

「『それが利益を生むんですか』と。全くそんなことはないですよね」

利益を生まない仕事、「水道哲学」に反する

中国の取引先に言われたことがある。「企業の中で利益を生まない仕事がいっぱいありますよね」。そのコストを製品価格に転嫁するのは松下幸之助の「水道哲学」に反している、と。中国では松下幸之助の経営哲学を勉強しているビジネスリーダーが多い。まだ日本が貧しい時代に、最新の良質な家電製品を水道の水のように安く供給できるようになれば、社会に対して大いなる貢献ができるとする考え方だ。


松下幸之助(パナソニック提供)

確かに安く供給するためには無駄なコストを全てなくさないといけない。「企業が成功し、歴史が長くなってきて大きくなると忘れがちなことです」

「日本は欧米の企業をずっとベンチマーキングして、追いつけ、追い越せとやってきたにもかかわらず、ここ20年ぐらいそれを怠っていると思うんです。一時期はサムスンやLGがパナソニックやソニーに追い付くなんて、『そんなばかな』と思っていました。しかし今後、中国のブランドが日本を抜かす日も近い。中国はコピーする国ではなく、イノベーションの国になっています。GDPも抜かれました。今までと同じやり方で勝てるわけがない」

だからこそ、社員には外の景色を見て欲しいと願う。

次回は樋口社長のもとでパナソニックCNS社が起こす「現場プロセスイノベーション」に迫る。断行した社内のカルチャー改革が、ビジネスにどのような好影響を及ぼしているのか。樋口社長が「現場」にこだわる理由は──。


樋口泰行(ひぐち・やすゆき)◎パナソニック コネクティッドソリューションズ(CNS)社 代表取締役 専務執行役員。1980年、松下電器産業入社。在籍中に米国留学し、1991年、ハーバード大経営大学院卒。1992年、ボストンコンサルティンググループ入社、その後アップルコンピュータ、コンパックコンピュータを経て、2003年、日本ヒューレット・パッカード代表取締役社長に就任。2005年、ダイエー代表取締役社長。2007年、マイクロソフト(現日本マイクロソフト)代表取締役兼COOに就任、翌年同社代表執行役社長兼マイクロソフトコーポレーション副社長。日本マイクロソフト代表執行役会長を経て、2017年4月、パナソニックCNS社社長、パナソニック本体の専務役員に就任。2017年6月から現職。

文=林亜季、写真=小田駿一

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