「お前でだめなら仕方ない」 勝負どころで信頼される人の条件|太田雄貴 #30UNDER30

日本フェンシング協会会長 太田雄貴

2008年、北京オリンピック。フェンシング男子フルーレ個人で、太田雄貴が日本人初となる銀メダルを獲得したことはまだ記憶に新しい。

その後、12年ロンドンオリンピックで団体銀メダル、15年の世界選手権で金メダル獲得と輝かしい20代を過ごした太田は、“日本フェンシング史上最高の才能”と称される現役時代を過ごした。

現役引退後は日本フェンシング協会の会長に就任し、いくつかの「改革」を実行。告知方法や会場選びを工夫し、それまでがらがらだった全日本選手権のチケットをわずか40時間で完売させたり、日本代表選手の選考基準に英語検定のスコアを導入したりなど、フェンシングを取り巻く環境を大きく変えようとしている。

30歳未満の次世代を担うイノベーターを選出する企画「Forbes JAPAN 30 UNDER 30」のスポーツ部門アドバイザーに就任した太田が、いまを生きる20代に伝えたいメッセージとは。



スーパーファミコンが繋いだフェンシングの道

フェンシングを始めたきっかけは、スーパーファミコンでした。 小学3年生の頃、まわりの友達と同じようにスーパーファミコンが欲しかったんです。どうにか父に買ってもらえないかお願いすると、ある交換条件を提示されました。それが、「フェンシングを始める」ことだった。

正直に言えば、スーパーファミコンを買ってもらったらすぐ辞めるつもりだったんですよ。でも結局、その後も自らの意思でフェンシングを続けたんです。 続けることになった理由は、試合で勝てたからです。

競技を始めて半年が経つ頃には、練習では負けてしまう強い相手にも、試合では勝ててしまう。そんな勝負強い自分に気づきました。フェンシングそのものが楽しいというよりも、試合に勝てるから楽しかったんです。いつしか没頭していき、結局、交換条件で買ってもらったスーパーファミコンで遊ぶことはほとんどありませんでした。

学生時代もフェンシングに夢中で取り組む一方で、世の中に対して「今に見ておけよ」と思う気持ちも強くて。というのも、その頃のフェンシングは今よりもっとマイナースポーツとして見られていました。「フィッシング? 釣りですか?」などと小馬鹿にされることも。それが日常だったんです。

僕は高校時代に史上初のインターハイ3連覇を果たしましたが、高校では僕のインターハイ3連覇よりも野球部の県大会優勝、甲子園出場の方が評価されていました。

「この不条理は何だ、今に見てろよ」と闘争心を募らせながら、フェンシングが注目を浴びることを信じていた。だったら自分が、誰もなし得なかった偉業を達成しようと決意したんです。
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文=田中一成 写真=小田駿一

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