その後、12年ロンドンオリンピックで団体銀メダル、15年の世界選手権で金メダル獲得と輝かしい20代を過ごした太田は、“日本フェンシング史上最高の才能”と称される現役時代を過ごした。
現役引退後は日本フェンシング協会の会長に就任し、いくつかの「改革」を実行。告知方法や会場選びを工夫し、それまでがらがらだった全日本選手権のチケットをわずか40時間で完売させたり、日本代表選手の選考基準に英語検定のスコアを導入したりなど、フェンシングを取り巻く環境を大きく変えようとしている。
30歳未満の次世代を担うイノベーターを選出する企画「Forbes JAPAN 30 UNDER 30」のスポーツ部門アドバイザーに就任した太田が、いまを生きる20代に伝えたいメッセージとは。
スーパーファミコンが繋いだフェンシングの道
フェンシングを始めたきっかけは、スーパーファミコンでした。 小学3年生の頃、まわりの友達と同じようにスーパーファミコンが欲しかったんです。どうにか父に買ってもらえないかお願いすると、ある交換条件を提示されました。それが、「フェンシングを始める」ことだった。
正直に言えば、スーパーファミコンを買ってもらったらすぐ辞めるつもりだったんですよ。でも結局、その後も自らの意思でフェンシングを続けたんです。 続けることになった理由は、試合で勝てたからです。
競技を始めて半年が経つ頃には、練習では負けてしまう強い相手にも、試合では勝ててしまう。そんな勝負強い自分に気づきました。フェンシングそのものが楽しいというよりも、試合に勝てるから楽しかったんです。いつしか没頭していき、結局、交換条件で買ってもらったスーパーファミコンで遊ぶことはほとんどありませんでした。
学生時代もフェンシングに夢中で取り組む一方で、世の中に対して「今に見ておけよ」と思う気持ちも強くて。というのも、その頃のフェンシングは今よりもっとマイナースポーツとして見られていました。「フィッシング? 釣りですか?」などと小馬鹿にされることも。それが日常だったんです。
僕は高校時代に史上初のインターハイ3連覇を果たしましたが、高校では僕のインターハイ3連覇よりも野球部の県大会優勝、甲子園出場の方が評価されていました。
「この不条理は何だ、今に見てろよ」と闘争心を募らせながら、フェンシングが注目を浴びることを信じていた。だったら自分が、誰もなし得なかった偉業を達成しようと決意したんです。