大きな掛け声とともに笛、太鼓、手振り鉦の囃子が演奏され、独特なステップを踏む跳人(はねと)と呼ばれる参加者と大型ねぶたが、青森市内のメイン通りを進む──。
毎年8月2日〜7日まで開催される「ねぶた祭り」。街を行く鮮やかなねぶたは360度ぐるりと回り、観客席ぎりぎりまで近づくと観客が大きく沸く。
ねぶたは、歴史的な物語をもとに制作される。最初に下絵が描かれると、土台の支柱に針金と電飾を付け、その骨組みに書紙を貼り墨で輪郭や顔が描かれる。最後に色付けされた後は、ねぶたを乗せる台車に乗せられ、高さは約5メートルに及ぶ。
(写真提供:北村麻子)
毎年、祭り開催中には約20台の大型ねぶたが運行する。その制作を手がけるねぶた師の中には、唯一の女性がいる。ねぶた名人・北村隆を父に持つ、北村麻子だ。昔から女性はねぶた師になれないと認識されていた中、ねぶた師を志した理由や、これから目指すものを聞いた。
──まず、ねぶた師になるきっかけを教えてください。
高校卒業後は就職して、神社の巫女さんになったり、接客業をしたりしていました。でもどの仕事をやっても、自分に合っている仕事を見つけられずにいたんです。そのため当時は、自分自身「なんてだめな人間なんだ」と思っていましたし、職も転々としていました。それが、20代半ばになったときに「このままじゃダメだ」と思ったんです。そのとき初めて真剣に自分の生き方について考えました。
もともと、女性がねぶたを作る考え自体私の中になくて、ねぶた師になることも考えていませんでした。パソコン教室に通って資格を取ってから事務の仕事をしていたときもありますが、正直やりがいは感じられませんでした。
その時、「たった一度の人生だから、自分が好きなものや、得意なものを仕事にしたい」と思ったんです。昔から勉強はとても苦手でしたが、絵を描くことは好きだったのでアート・デザイン関係の仕事をしようと、またパソコン教室に通いました。でもデザインを学んだからといって、タイミングよくやりたい仕事が見つかるかといったらそんな訳もなくて…。
そうこうしているとねぶた師の父が足を悪くして、ねぶた師を続けられるのかという話になったんです。当時は不景気でねぶたの台数も減って、父の苦しそうな姿も見ていました。その時に、”もし父がねぶたを作れなくなったら、今まで自分の生活の中に当たり前にあったねぶたが無くなるかもしれない”と初めて思ったんです。ねぶたは自分にとってなんなのか、すごく考えました。
そんな中、父は2007年に最高賞の「ねぶた大賞」を獲りました。すごく苦しんでいたのに、どん底から這い上がってきた父の姿を見たときは尊敬しましたし、「父の代でねぶたを無くしてはダメだ」と思いました。
制作中のねぶたを見ながら語る
「女性初のねぶた師」の苦悩
──それから一からねぶたを学びはじめたのですか?
はい。でも何から手をつけたらいいのかわからないし、父は「女にはねぶたは作れない」と言っていました。制作は力仕事が多くて、危ない作業もあります。ねぶた自体も、男性の勇ましい姿を描くものというのが根強くあったなかで、女性がどこまで表現できるのかという部分があったのではないでしょうか。そういう意味で今まで女性のねぶた師がいなかったのかなと思います。
2008年から父に弟子入りし、修行をしていたのですが、ねぶたの制作について学ぶことがすごく楽しくて全く苦ではなかったです。修行4年目では、ねぶた師にならないかと協賛団体から依頼がきました。普通だと約10年修行してねぶた師になります。依頼の話を聞いて、父は反対していましたね。
2013年の制作風景(写真提供:北村麻子)
協賛団体の方は、私が作った小さいねぶたを見て伸び代を感じていただいたようで、結局2012年にデビューすることが決まりました。初めは「果たして形になるのか」と思いながら大型ねぶたの制作を進めていました。恐怖でしかなかったですが、気づいたときには完成していましたね。それくらい必死だったのかな。
でも、ねぶたを完成させると「父親が作ったんじゃないか」とその後2、3年は言われました。デビューの年に「優秀制作者賞」を頂いたのも、理由の一つにあったかもしれません。
それから、「女性初のねぶた師」として注目されたこともあって、たくさんの方が「色使いが綺麗」「繊細」と言ってくださったんですが、最初の頃はすごく嫌でした。私は色使いや繊細さは「女性だから」どうこうではなく、一ねぶたの制作者として純粋に制作しているだけなのに、女性だということが付いて回る。「女性ならではの色使い」「繊細」という評価は素直に受け入れられなかったです。
組み立て・色つけのスタッフ3名、紙貼りだけを行うスタッフ10名と制作を進める(写真提供:北村麻子)
でも皆さんが純粋に褒めてくださっているのがだんだん分かってきて、今思うと「女性だから」と一番意識していたのは自分だったのかもしれません。