米国人が関心を高める「望ましい死」とは何か

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重要なのは「良き人生」

もう一つ、問題になっていることがある。それは、人生の最後の時間ばかりに関心を向けることによって、それ以前の数カ月、または数年間に向けるべき注意が十分に向けられなくなることだ。

高齢者の多くは亡くなる前から、長期にわたって慢性疾患を抱えている。望ましい死と同様に、良き人生についても考えられるようになればと思う。特に、体に不自由な部分が出てきた人たちについてはそうありたい。

死に関して競い合うような考え方は、望む結果をもたらさない可能性がある。それは一つに、真の「望ましい死」などないためでもある。人生の最後の迎え方は、何百万とおりもある。臨床医たちは何十年も前から死に関して、「ある程度において合意された規範」を設けようとしてきたが、ほとんど失敗に終わっている。

何が望ましいのかについて、死を迎えようとしている本人と、家族や医師の考えが一致しない場合もある。例えば、家族は本人以上に、尊厳を保つことを重視する傾向がある。

多様な「死の在り方」

こうした不確実性があっても、私たちは「望ましい死」に関心を持つことをやめない。グーグルで検索すれば、何件ヒットするだろうか。アマゾンのサイト内で検索すれば、何十冊もの関連の本が見つかる。多くの人がブログでこの問題について語り、研究者らも論文を発表している。

これらは決して、悪いことではない。あまりにも長い間タブー視されてきた問題について考え、そして議論するようになったのだ。ただ、子供を大学に裏口入学させた親たちと同様に、私たちは少し度を超してしまったかもしれない。そして、自分にも家族にも、非現実的な期待をかけているかもしれない。

もちろん、事前指示書や医療委任状を作成すること、死について話し合うことについては積極的であるべきだ。だが私たちは、場合によってはたった一人で、痛みを抱えて、家族の問題を解決できないまま、人生を終える人もいることを覚えておく必要がある。

私たちにできるのは、最善を尽くすことだけだ。それに対して、誰も評価を与えるべきではない。

編集=木内涼子

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