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米国人は競い合うのが大好きだ。「マーチ・マッドネス(3月の熱狂、男子バスケケットの全米大学選手権)」では職場の同僚とどのチームが優勝するかに賭け、家では近所で一番手入れの行き届いた最高の芝生にするために、かなりのお金をかけたりする。子供を最高の大学に入学させるために、賄賂を贈る人たちまでいる。

そして最近では、誰が最も「望ましい死」を迎えることができるかについて、競い合うようになっている。望ましい死とは、痛みを緩和する処置を受けていても意識は明瞭で、家族に囲まれ、皆でお気に入りの歌をうたい、何の不安もなく、自宅で人生の最後の瞬間を迎えることだ。

だが、私たちの多くにとって、現実は全く異なったものになるだろう。最大限の努力をしても、病院で命を終えることになるかもしれない。子供が親の死に目に会えないこともあるだろう。痛みを緩和する薬のおかげで、意識が低下しているかもしれない。

望ましい死の「副作用」

望ましい死(競争好きの米国人にとっては、「最高の死」と言う方がいいかもしれない)を目指そうとするとき、問題になるのは、実際には多くの人がそれを実現できないと考えられることだ。

そのような死を迎えられないことが、残される家族に一層大きな罪悪感を与える場合がある。おかしなことに、最も親身になって面倒をみた人が最も大きな罪悪感に襲われ、うつ状態になったりする可能性があるのだ。

緩和医療が専門のカナダ・トロント大学医学部のアンドレアス・ロパキス教授は昨年、望ましい死について次のような見解を示した。

「この言葉のおかげで、身体的または精神的な苦痛を抱えて亡くなる患者が、(望ましい死を迎えられないのは)自分自身のせいでもあると考えてしまうようになることを懸念している」

教授はまた、「善を尽くしてきた医療関係者が無力感にさいなまれることもあり得る」として、この言葉が医師らに一層大きな心理的負担を与える恐れがあることを示唆している。

編集=木内涼子

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