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そうこうして3年が過ぎた頃でしょうか。夫が「疲れた、俺は日本に帰る」と言い出しました。長年アメリカに住んで感じるのは、この社会は移民女性よりも男性にアタリがきつい、ということです。夫はアメリカで、マイノリティでいることに疲れたようでした。

一度2人で日本に帰り、籍を抜いて、私だけ1人でシカゴに戻ってきました。ちょうどその晩に、アパートに強盗が入り、全財産の30万円を盗まれました。「黒人の音楽が好きでアメリカに来たのに、黒人に殺されるんだ」と思って本当に怖かったです。でも不思議と帰りたい、とは思わなかったですね。

──それからどうしたんですか?

自分一人で演奏して歌えるようにと、ピアノを習いはじめました。ピアノの師匠はアーウィン・ヘルファーというヴィンテージ・ブギウギ、ブルース、ジャズの大家です。

それまで生活費を稼ぐために日本食レストランでアルバイトをしていましたが、夜に演奏を入れたいので、日経新聞のアシスタント職に応募し、昼間の仕事に変えました。

そして、アーウィンを介して、30歳上のソプラノサックスプレイヤーで2番目の夫のクラーク・ディーンに会いました。彼がメンバーを集め、THE JAZZ ME BLUESというバンドを結成し、HotHouseという前衛音楽をやるクラブで毎週月曜日に演奏するようになりました。

毎年、自宅に100人くらい人を呼んで、パーティをするようにもなりました。15年程活動して、シカゴでもよく知られるようになりました。


1999年、日本人女性初バンドリーダーとしてシカゴブルースフェスティバルに出演する野毛洋子。(Photo by Paul Natkin/Getty Images)

──2006年にはシカゴ・トリビューン紙が選ぶローカル・アーティストの年間アワードも受けられています。また同紙の批評にもあるように、ジャズとブルースを融合させ、さらに日本語も交えて演奏されています。

アメリカに来た当時は、黒人になりたかった。その音楽性に強烈に惹かれていたからです。それが私の原動力だと思います。

しかし、次第に自分が日本人であることは変えられない、と思うようになりました。音楽を通して黒人らと親しく交流するにつれて、彼らの音楽の背景にあるものが見えてきました。

ジョニー・B・ムーアという伝説的なギタリストと一緒に演奏した時、彼は3歳の時に南部で友達を目の前で白人に殺された経験があって、白人の聴衆がいるバーでは、モニターの後ろに隠れて演奏したんです(後年は白人女性と結婚し、モニターの後ろに隠れる癖は直りましたが)。

いくら黒人になりたくても私はなれない。「Who am I?」と問いかけたときに、「黒人の音楽が好きな、日本人」でいいじゃないか、と思えたんです。そしてある日HotHouseで日本語も交えて歌って反応を見たら、喜ばれたんです。

思い返してみると、私が最初ブルースを聞いた時も、歌詞の意味は分からなかったが、鳥肌が立った。言葉は感情をのせる一つの乗り物であって「日本語が分からない聴衆の前で日本語で歌ってはいけない」という訳ではない、と思うようになりました。

構成=岩坪文子 イラスト=Willa Gebbie

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