阪神淡路大震災が20歳の私を現場へと向かわせた | 藤沢烈 #30UNDER30

一般社団法人RCF代表理事 藤沢烈


それまでまったく編集の経験はありませんでしたが、自分が編集長になり、彼らから原稿を集めて20ページほどの冊子を作りました。一部100円の値段をつけたところ、100人ほどの友人たちが喜んで買ってくれました。この経験から、自分がコンテンツにならなくても価値を生み出せること、ゼロからイチを作るのはとても楽しいことだと学びました。

高校3年生になると、増進会出版社が高校生向けに大学生活の情報を届ける雑誌『セリオ』の編集部に出入りするようになりました。ところが、ほどなくして同誌が廃刊になると知らされたんです。

愛読していた雑誌だったので、なくなるのは残念でした。そこで私は出版社の人に「コンセプトを受け継ぐ雑誌を出したい」と提案しました。できるかどうか、全く目処は立っていません。無謀な提案だったと思います。

当時の私はまだ高校生でしたが、編集部の大人たちは応援してくれました。私の提案を聞いて、一緒にやってくれる同世代の仲間も現れました。雑誌の最終号には新雑誌の広告を載せてくれたこともあり、新雑誌の創刊号には300人ほどの読者がつきました。

実際に雑誌を出したのは、大学入学後のことです。最初の1年間は雑誌の編集作業に没頭したため、ほとんど大学には行っていません。紙面はマッキントッシュを使って自分でデザインし、3か月に1回のペースで5回ほど発行しました。編集作業は大変でしたが、伝えることの面白さ、読者からの反応は、制作の苦労を忘れさせるものでした。

阪神淡路大震災が大きな転機に

人生の大きな転機になったのは、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災です。当時の私は大学1年生で、20歳になっていました。

私は「自分も何かできないか」と思い、震災1カ月後に東京からボランティアとして現地に入りました。けれども、現場ではほとんど何もできませんでした。

現地では、それまで当たり前に感じていた社会が一瞬にして破壊された光景を目の当たりにしました。「社会はこんなにもろいのか」と、大きな無力感に包まれました。阪神高速道路や大きな建物が倒れている映像が、何度も頭に浮かぶようになりました。
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文=畠山理仁 写真=小田駿一

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