宇多田版“ファム・ファタール”
宇多田ヒカルが「初恋の人」と称するロアルド・ダールの、奇妙でおかしな世界観は、ファニーで混沌とした『traveling』のプロモーションビデオに通じるし、『Goodbye Happiness』のようにアップテンポなノリで小躍りしそうな(実際に宇多田はプロモーションビデオでダンスしている)のに、歌詞がいたく切なく身に沁みる不条理さは、フィッツジェラルドの喜悲劇を彷彿とさせる。
父方の祖父は私が生まれる前に亡くなり、母方の祖父とは幼い頃一度会った記憶がうっすらあるだけ…なのでちょっとしたおじいちゃんコンプレックスがあって、初恋は作家のロアルド・ダールだったり、16の時の撮影でリチャード・アベドンにときめいたりした。略して爺コン。
— 宇多田ヒカル (@utadahikaru) August 12, 2012
オスカー・ワイルドの代表作『サロメ』の主人公サロメと、宇多田の曲にたまに登場する“ファム・ファタール”のような女性にも、似た点がある。
ユダヤの王妃エロディアスの娘サロメは、預言者ヨカナーンに一目惚れするが、ヨカナーンはサロメの出自を咎め、拒絶する。サロメは王である義父に妖艶な踊りを披露し、褒美としてヨカナーンの首を所望した。愛する者の生首を掲げ「ついにお前に口づけしたよ、ヨカナーン」と喜ぶサロメ。
その悪魔的な美しさと執着心の欠片のようなものが、『Forevermore(アルバム「初恋」収録)』の「愛している 愛している それ以外は余談の域よ」という歌詞にリンクし、サロメの蠱惑的な踊りは『人魚(アルバム「Fantome」収録)』の、水面を踊る人魚(に比喩される女性)を想起させる。
宇多田が描く女性は比較的、愛情とうまく折り合いがついていない。距離を計りかねるがゆえに病んでしまったり、「どうしても愛してほしい」と祈りにも似た情念を抱えたり。そうして愛にさまよう切実な女性像がまた、私たちを魅了している。
サルトルと同じ「自由」と「責任」のスタンス
宇多田ヒカル自身はサルトルについて言及していないけれども、偶然なのか無意識なのか、その思想にはいくつかの共通点がある。例えば「自由」と「責任」への姿勢。
人間は生まれながらに決められた人種や社会、家庭環境などの先天的なものには責任を持つことはできないが、生まれたあとの自分に対して「私はこのような者として生きる」と決めることもできるし、どう考えてどう行動するかを「選択できる自由」を有している──サルトルの言う「自由」というのは、ざっくり平べったくいうと、このようなものだ。
つまり、ひとの人生もこの世界も、そもそも不条理だということ。周囲の影響を受ける必要はなく、たとえ受けたとしても、自分で選択してどんな行動も取れるということ。しかし、そこには常に「責任」と「不安」が伴う。どういう風に選択してもいい「自由」があるからこそ「不安」になる。
これらはいつもセットで、ひとえに「自分は自由なのだ!」と言っても、それは決してポジティブな意味だけではないし、人間は自らの自由に対して「責任」を持たねばならない。だからサルトルは「人間は自由の刑に処されている」とも言っている。