宇多田ヒカルと海外文学、「自由」と「責任」

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そして宇多田ヒカルも、「自由」でいることの定義を、10年前に発売されたエッセイ『点-ten-』で以下のように綴っている。


「おまえは自由だな〜」ってよく言われる。初対面の人からも「なんか自由そう」とか。少し羨ましそうに。

その度に思う、(自由はとても厳しいものだと、分かって言ってるのかな?)って。本気なら、全てを捨てて荒野に飛び出す覚悟があるなら、自ずから選んだ道を進む上で何度となく人に誤解されたり、責められたり、孤独に心をむしばまれようと、苦い我慢を強いられようと、それはあなたが選んだこと。

「自由に生きる」ことは、決して「楽に生きる」ということじゃあない。

(略)

「自由と責任はセット」の本当の意味は、「自由な生き方を選んだら、引き返さない責任があるよ、その覚悟できてんの?」だと思う。

(宇多田ヒカル『点-ten-』EMI Music Japan Inc./U3music Inc. 2009/3/19)

これを書いた時点ではまだ宇多田は20代中盤。卵巣腫瘍の手術と離婚を乗り越えたばかりのタイミングだ。エッセイではそれまでの人生を振り返りながら「引き返すこと、後悔することは無責任だ」と続く。

10代にして日本を代表する孤高の歌姫となった宇多田は、自由でいたいと望むほど過剰な責任を自己に課した。30歳を前に「人間活動」という名の長期休養でそれらをリセットし、鮮やかに復帰した宇多田の、その後の活躍は説明するまでもないだろう。

それでも私は宇多田ヒカルの哀愁ある歌声を聴くたび、「自由の刑に処されている」という言葉を思い出す。そこに彼女が歌う起源があるような気がしてならないからだ。

文=川口 あい

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