きっかけは2つあって。1つは国立西洋美術館でやっていたピエール・ボナール展で『逆光の裸婦』を見たことです。女の人がお風呂に入ろうとしている後ろ姿なんだけど、印象派に近いその絵は対象物の輪郭がはっきりしていなくて、すごくいいんです。光が燦々としていてね。純粋に「気持ちがいいな」と思った。
もう1つが、東京国立近代美術館で村上華岳(日本画の大家)が大学院時代に描いた『二月乃頃』に出合ったことでした。ただ山があって、田んぼが広がっている。これも気持ちいい。急に「絵を描きたい」と思った。それだけのことです。
21歳で東京芸術大学美術学部に入学し、いろいろな作品を見ていくうちに気がついた。ぼくが好きなアーティストたちはみんな、見事に「無残」なんだよね。
美術って、ぼくは「宛名のないラブレター」だと思っています。だけど時を経るに連れて、抽象的な意味において、アーティストたちがラブレターを出す相手がいなくなっていることがわかった。つまり、描く根拠がないわけですよ。それがアーティストの無残につながっていると思った。
どこに問題があるのか考えた。そして、自分は(美術界の)裏方をやろうと心に決めました。
20代の自分がいまの姿を見たら、「変なことをやっているのがいるな」と思うかもしれないね。美術とは関係がない事業をやっているように見えるかもしれない。でも、いまの自分の姿は50年前に「こう生きたい」と思った姿と全然変わりません。学生時代を知る仲間からは、「お前はいつまでも若いころのままだ」と言われますよ。
アーティストは極めて優秀な「技術者」である
50年前のアートシーンと現在とでは、美術のあり方は大きく変わりつつあります。
特に現代美術は欧米がメーンストリームですが、「日本は現代美術後進国である」といったことが関係なくなってきている。フランス革命以来、アートはホワイトキューブ(白い展示空間)に展示されることに価値があった。それが、変わり始めているぞというのがぼくの感覚です。
美術家はアーティストである以前に、社会の一員です。そして、彼ら彼女たちは極めて優秀な技術者だとぼくは思う。均質化と効率化を軸に拡大した資本主義が倫理性を失った時代において、「自分が持つ技を社会で役立てたい」と考えるのは、社会人として自然な発想でしょう。
たとえば、人が暮らしている場所には、その土地ならではの風土や文化、面白さがある。それをきちんと表現する。土地が持つ独自性を発見して、「これが面白いんだ」ということを、彼らは地域づくりの仕掛けとしてつくれるわけです。