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2019.08.29 07:30

べゾスを陰で支えた天才たち|アマゾン ジャパンができるまで 第7回


ところがある日、状況打破ができず悶々としている曽根の元に、ヤフーの担当者から連絡があった。「ウチのエンジニアが解決したので、文字コードはそのままで送ってください」。ヤフー側が文字コード変換のプログラムを作ってくれたのだ。

ヤフーは2000年の夏に1日あたりのページビューが1億を超え、利用者比率(リーチ)が9割近くの化け物サイトになっていた。当然、検索回数もとんでもない数が叩きださせていたのだが、その検索結果に「アマゾン ジャパンが常に表示される」という今では考えられないような広告を出していたのだ。現在のCPM(1000回表示当たりの広告コスト)、CPC(広告1クリックに要した広告費用)で換算したら、とんでもない金額になることは間違いない。

その後、ヤフー以外にも広告を出稿していくわけだが、どの広告から何人のユーザーが来て、どれぐらいの売上げが上がっているかをモニタリングし、レポートするのが曽根の役割となった。その研修のために、シアトル本社に行くことになる。

現地に着いて研修担当者のところに行くと「アカウント・マネジメント・ユニバーシティー」という広告担当者(アカウント・マネジャー)用のドキュメントを渡される。

曽根はいう。「考えれば当時、すでにドイツ・フランスと海外展開を実現していたので、研修用資料はブラッシュアップされていたんですよね」

財務状況悪化の中でも、CFOの態度は「高潔」だった

ジャパンのローンチ後、アカウント・マネジャーの研修でシアトル本社に出張した曽根。「ペット同伴出勤可」だったシアトル本社で行われたデータウエアハウスの講義では、講師の横にも大型のシェパード犬が鎮座していたのにも驚かされたが、何よりも、別の大人数が参加するミーティングで見た当時のアマゾンCFO、ウォーレン・ジェンソンの態度に心を動かされたという。

ギスギスした雰囲気で始まったミーティング。なぜなら、当時のアマゾン・ドット・コムは財務の見通しも株価も最悪だったからだ。だが、ジェンソンは、始まった従業員との質疑応答の中で、必要なことを実に的確に、誠実に答えていく。その「精錬」ともいえる姿に不思議な感動を覚えた記憶があるという。

「思えば彼の態度は、最近、エグゼクティブに必要だといわれ出した『Integrity(高潔さ)』、そのものだったのかもしれません」

オークションモデルを方向転換したのち、曽根が配属されたグローバル・オンライン広告のチームの上層部には、のちにフェイスブックCOOに就任したオーウェン・バン・ナッタや、キャリア決済の国際サービスプロバイダ、「boku」を立ち上げたマーク・ブリットなどの豪華な面々が顔を揃えていた。

「当時のアマゾン本社があった古い病院を改装したビル、『PacMed』は街から離れているので、社食もありました。ビュッフェ形式で好きなものを取って精算するシステムなのですが、1カ所、毎日、行列が出来ているところがあった。聞けば『あそこはシェフが旨いパスタを作ってくれるんだ。前はダウンタウンでレストランをやってたらしんだけど、子どもができて、夜働けなくなったので、ここで腕を振るっているんだ』ということでした。20年前のアマゾン本社では既に『働き方改革』が実現していたんですね。トマトソースのペンネがおいしかった記憶があります」
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文=石井節子/福光恵 構成=石井節子 写真=帆足宗洋

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