「企業がすごいスピードで成長している時は、やるべきことの方が多すぎて、誰が何をやるかは二の次になる。反面、成長を止めた企業では、やるべきことが減っているのに人が多すぎて、そこに政治や停滞がするりとしのび込む。(中略)誰かがきみにロケットに乗り込む権利を差し出していたら、どこに座ればいいかなど聞かず、とにかく乗り込むべきだ」
1999年秋と2000年元旦、いわばどこに座ればいいかもわからないまま、ただ「やるべきこと」のために「ロケットに飛び乗った」2人の若者がいた。この場合のロケットは言うまでもなくアマゾンだ。
2人は年齢も近く、「なんでもやる時代」の新入メンバーだったため、アマゾンのオフィスがあった渋谷の台湾料理屋で、ビール片手にしじみと腸詰をつまみながら、若者らしい青臭い話題に花を咲かせたり、ファストペースな毎日の合間に「ブレイク」と称してはオフィスビル下のスタバで頭を冷やしたりした仲である。ローンチ前、一緒に証券会社に口座を開きに行ったりもしたという。
まず、岡村、西野らに続く4人目のアマゾン ジャパンの社員として入社したのは曽根康司だ。西野との縁は、インターネットのパワーの予感が静かに渦巻く、混沌と熱の時代から生まれたといっていい。
そもそも曽根は、勤務していた時計店から独立、海外オークションなどで仕入れた時計を時計店などに卸す「時計商」をしていた。
自宅兼仕事場でアップルのパワー・マッキントッシュ6100を改造したマシンと電話回線をモデムでつないでネットサーフィンをしたり、時計商としてのホームページを自作したりしていた曽根は、「イーストベンチャーズ(独立系ベンチャーキャピタルで、国内外のITスタートアップ企業への投資を行なっていた)」の松山大河氏が発信していたメールマガジン「DENメッセージ」の熱心な読者だった。
曽根康司。松山大河氏が発信していたメールマガジン「DENメッセージ」の熱心な読者だった。
偉人の名言を紹介するメールマガジンだったが、触発されること少なからず、曽根は松山に一方通行のメールを書いていたという。
「ところがある日、松山さんから返信があったんです。渋谷のバーでネット好きが集まるから来ないかと。当日、バーに行くと松山氏の他に学生っぽい若者が数名と30代の大人が一人いました。学生っぽい若者はネットエイジに出入りしていた面々で、グリーの田中社長をはじめ、今は日本のネット企業を代表する経営者の方たちです。そして、30代の大人が、当時のネットエイジ取締役だった西野伸一郎氏でした」