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2019.08.22

「ロケットに飛び乗った」若者たち|アマゾン ジャパンができるまで 第6回


当時の苦労で曽根と野口が真っ先に思い浮かべるのは、アマゾンがローンチまで頑なに貫いた秘密主義だ。ローンチ前、日本での知名度がそれほど高くなかったアマゾンだが、書籍業界ではローンチ前から「黒船来襲」と反発を受け、メディアの関心も集まっていた。

たとえば新宿の仮オフィスには「エメラルドドリームスドット・コム」という名称で入居し、通称は、アマゾン川と双璧をなすナイル川に引っかけて「ナイルさん」と呼ばれていたという。ちなみに「エメラルド」は、シアトルの別名「エメラルドシティー」にちなみ、当時出てきたセブンイレブンのイーコマース「7ドリームス.com」をくっつけたものだ。当時アマゾンは他の国でも、「エメラルド」になぞらえたコードネームを使っていたようだ。

曽根は言う。「社名を書いたハンコが必要になって、当時、西新宿にあったオフィスデポーでハンコを作りにいったときのことです。隣のお客さんに『アマゾンジャパンって、あのアマゾンですか?』と聞かれ、『よくわかりません』とバイトの兄ちゃんを装ったこともありました。歯医者では、保険証を見た歯科医からやっぱり『アマゾンなんですか?』と聞かれたり」

この頃には長谷川純一が、カントリーマネージャとしてアマゾン ジャパンに就任。西野と長谷川というツートップ体制ができあがる。ローンチ前の余裕のなさや緊張感を西野の天性の明るさが和らげ、一方で、完璧主義できっちりした長谷川が引き締めるべきところを引き締める。名ツートップの誕生だった。

野口がこんなことを覚えている。「マサチューセッツ工科大学でMBAを取得したトライアスリートである、見た目も厳格そうな長谷川さんが来てからは、僕らのラフな服装を指摘されるのではないかとハラハラしてました。まずはコンサバから入って、恐る恐る試した7部丈のパンツに何も言われなかった日には、『やったぜ!』と曽根君とハイファイブ(ハイタッチ)をしました」

愛すべき「ドアデスク」の思い出

冷静なトップとしての顔だけではなく、そもそも技術の専門家だった長谷川は、メンバーのネットワークの設定をするなどネットワーク管理者としても活躍していた。野口は、アマゾンの創業時の象徴であるドアデスク(アメリカのホームセンターで売っているドア用の板に足を取り付けて机に改造したもの)をわざわざアメリカから取り寄せて、西野とともに楽しそうに組み立てていた姿を覚えているという。

ただ、Frugality(倹約)の精神の象徴なはずが、ドア用の板をわざわざ空輸して高くついただけでなく、特殊な工具がなくては組み立てられず手間がかかった(組み立ての際は、ネジを社員1人1回ずつ順番に締めたりする「儀式」もしたという)上に、脚を固定しているブラケットが膝に当たってすこぶる痛い。「ドアデスク」はアマゾン創業のシンボルともいうべき愛すべき、困った「仲間」だったようだ。

そんな長谷川から、ある決断が発表されたのは、2000年の初めのころのことだ。そもそもアマゾン ジャパンは、オークションを中心にローンチすることが計画されていた。現在、マーケットプレイスに受け継がれている、古本をメイン商品にしたビジネスモデルだ。ところが国内ではすでに「ヤフー!オークション」や「eBay」などが定着していたなどの理由から、方向転換。新品の書籍をメインの商品にした、従来のブックストアモデルでのローンチが決まる。

突然の方向転換にメンバーは戸惑った。とくにオークション好きを買われて入社した曽根は、入社後わずか3カ月の方向転換には当然、混乱したという。
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文=石井節子/福光恵 構成=石井節子 写真=帆足宗洋

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