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2019.08.22

「ロケットに飛び乗った」若者たち|アマゾン ジャパンができるまで 第6回


入社後、曽根を待ち受けていたのはまさに、冒頭のエリック・シュミットの言葉ではないが、「多すぎるやるべきこと」だった。

新しく入るメンバーのPCを新宿の家電量販店まで買いに走ることから、Eショッピングブックス、ネオウイング、紀伊国屋オンラインといった競合オンライン書店からテスト購入してカスタマー経験をすることまで、すべてを引き受けた。当時、西野の命で日経テレコムなどの新聞記事検索機能を使って日本の市場規模を調べたところ、書籍が1兆円、雑誌1.5兆円という巨大な市場だったことを覚えているという。ちなみに現在は、どちらも市場規模は半分以下に縮小している。

12畳に「昇格」したオフィス

オフィスも、曽根が加わった後で12畳ほどのスペースに移転。2000年の年明けには社員数も10人を数え、人口過密に変わりはなかった。無線LANも普及していない時代。床にはLANケーブルが張り巡らされ、それをつなぐHUBがあちこちに転がっている……いかにもインターネット黎明期のベンチャー企業のオフィスらしい風景の中、2000年1月1日付けで社員としてやってきたもう1人の若者が、野口 真だった。


「オフィス内でのカジュアルファッションの限界を一緒に考えたりして……。今のアマゾンジャパンのドレスコードの基本は、われわれ2人で決めたと勝手に思っています」

「曽根くんはとにかく人や組織の動きに敏感で、気配りが半端でなかった。だいたい格好はラフで、Tシャツにキャップといういわば『気配りのなさ』だったのには反してましたね。そして、なによりもインターネット関連の知識の豊富さには、最初から舌を巻かされました」

そう話す野口は、黎明期から14年間アマゾンに在籍し、書籍のローンチ後はミュージック、ビデオ、DVD、その後はソフトウェア、ビデオゲームのローンチでも活躍した。アマゾンの心臓部ともいえる「カタログ」(商品データベース)担当としてや、オンラインマーケティングチームでの商材を超えた売上げ拡大への貢献は大きい。

彼の履歴もまた「異色」だ。新卒で入社した大手金融機関を2年も経たずに退職し、製造系ベンチャーに入社。3DCADやUNIXに触れ、ベンチャーとITの世界に興味を持った。

ちょうど当時のドット・コムバブルの旗手、アマゾン・ドット・コムの日本上陸の噂を耳にし、どうやったら入社できるのか画策していたところだった。例えばアマゾン ジャパンのキーパーソンと目されていた西野が、渋谷ビットバレーのイベントにくるという噂を耳にすれば、名刺を交換しに出かけるなど、「地道な活動」を続けたのち、金融業界出身ならではの営業面での鉄腕さを期待され、立ち上げメンバーの1人としてアマゾン ジャパンに加わることができた。

当時のメンバーの中では、曽根を含め3人の同い年と並んで最年少だった。曽根は、野口について次のように話す。

「証券会社出身なのに、パっと見、お金の匂いがしないヤツだなと思いました。年齢が同じで、主に80年代ハードロックなど好きな音楽やファッションの趣味が合ったこともあり、すぐ仲良くなりました」


野口真。アマゾン・ドット・コムの日本上陸の噂を耳にし、どうやったら入社できるのか画策していた。

「曽根君も言っていたように、本当に仕事は多岐にわたっていました。あと、年齢が自分たちよりも上のメンバーがほとんどだったため、ITリテラシーがそれほど高くなかったのかもしれません。デスクサイドヘルプもまだいなかったので、みんなのPC周りのお世話もしていた。ある上司が何度もコーヒーをキーボードにこぼすので、薬局で無水アルコールを買って、恩に着せながら分解洗浄したりしてました」
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文=石井節子/福光恵 構成=石井節子 写真=帆足宗洋

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